〝私たちは何のために
生まれてきたのでしょうか?〟
〝私の使命は何でしょうか?〟
〝魂はなぜ転生を
繰り返すのでしょうか?〟
という質問に対して、悟り系の人たちは、よくこう言います。
「そもそも生まれてもないし
死んでもない」
でも、これは肉体がワタシだと思っている自我や、
生まれ変わりを信じている、魂がある派の人達には理解できない。
でも深く自己ワークをしていくと、この
〝私はそもそも生まれてもないし
死んでもない存在だった〟
というところに行き着きます。
それは、あらゆるストーリーを映し出しながら、
それらを何度も何度も見届けている存在に気づくからです。
その常に在る視点に気づいたとき、
あれ??ってなるのです。
「あれ?私はこの肉体で
肉体に入っている魂で
何度も何度も生まれ変わりを
繰り返している側では・・・
ない・・・・・??」
という「逆転の視点」に気づきます。
「私がこの流れている
〝肉体や魂〟側であったのなら、
こんなに色んなことを知らないし、
感じないし、視ることもできないし、
ましてや気づくことなんて出来ない」
〝肉体〟や〝タマシイ〟という流れている側ではなく、
それを視ている側に気づくのです。
その存在は自我でいうところの
〝肉体〟や〝タマシイ〟という、ちっぽけな存在ではなく、
あらゆるストーリーを知っていて、最初から視ていて、
すべてが何かに
〝気づくまで〟
寄り添っている存在。
最初からいて、ずっとそばにいて、
永遠になくならない存在。
その永遠の〝何か〟に気づいたとき
「あれれ?」ってなるのです。
私たちは本当は〝こっち側〟にいなかった。
私たちは、いつも視ているけど、流れてる側にいない
〝不動の存在だった〟
そこに気づいたとき
〝私は生まれてもないし、死んでもない〟
永遠の存在だったと気づくのです。
「生まれてきた意味は?
=
そもそも、この肉体が私の全てではない。
ただ流れ上そうなっていた」
「生まれてきた使命は?
=
あらゆるデータがあるだけで使命はない」
「なぜ転生を繰り返すの?
=
そもそも個別の魂はなく、流れしかない。
一滴の水はすべての水を含み、
すべての流れは、あらゆる一滴を含む」
っていうことを話すと
「そんなの酷いじゃないか!
この肉体がなくなったら
可哀想じゃないか!
来世や前世がないなんて
救いもないじゃないか!」
という癒されてない自我たちは言います。
なんとか「自分である肉体」や
「自分であるタマシイ」があって欲しい。
ないなんて言わせない。それじゃあ、今まで自分が
生きて来た意味がないじゃないか。
でも、その〝私の肉体や魂ストーリー〟を
保持しようとしている存在が癒され始めると、
いかにこの肉体が愛しく、ここに来るデータの束たちの声が、
優しく、ありありと、これでもか、と聴こえてきます。
この愛しい肉体も、いろんなデータの
脊髄反応である感情や想いたちも、
すべてが優しく、気づきを与えることしか起きていない、
ということに気づきます。
その流れに気づき始めたら、だんだん
〝流れている側だと思っていた私〟
から手が離れて、
きちんと、その流れに寄り添っている私が姿を現し始めます。
すべてを見守っている〝永遠の愛〟だった私が、
ようやく登場するのです。
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