【~無明に光をあてる~】
今朝ゆにこが自己ワークをしていると、
喉元にくっつく思いがあったので、丁寧に観ていくと、
マレーシアのテーラワーダ系の僧侶のストーリーが出てきました。
彼の思いを聴いてみるけど
「悟りを目指したが無明は残る」ということ。
無明=光があたってないもの。
私たちはよく「わからない」という言葉をつかいます。
仏教でもわからないことは、わからないままでいい、
と説かれる教えもあるそうですが、
ゆにこは、ただ単に「わからない」ではなく
「光をあててないだけ」なのではないかと思ってます。
謎が解けることが〝わかること〟なのではなく、
閉ざされた闇に葬り去られたものが〝無明〟であるならば、
生まれ変わりはなくても、唯一、輪廻を繰り返すとしたら、
この〝無明〟の部分ではないか。
だって闇に葬り去られたままなのだから、
陽の目を見るまで、何度も何度も現象として、
表に出ようとチャレンジする。
〝ない〟のではなく〝ある〟のに光があたってない部分。
誰にも気づかれることなく、闇に閉ざされた部分。
人知れず、たしかに残る思い。
自己ワークの中で、そのテーラワーダの僧侶と対話してると、
生きてるうちに悟ろうが悟るまいが、
私たちは膨大な無明の中にいる。
その無明に気づく光こそ、愛なんだと。
すべてが愛とか、起きてるようで起きてないとか、
一見悟った風な表現を使い、
まだ無明にいるものをなかったことにするのではなく。
本当の悟りとは、すべてがないことでも、
すべてが愛だということをわかっちゃったことでもなく、
哀しみや苦しみという、まだ無明の中にいる思いに、
光をあて、見つけ、その存在に、愛と一緒だったと
気づかせてあげる自己と共にいること。
自己ワークの中で、そんな話をマレーシアのお坊さんとして、
目覚めた朝でした(o^―^o)
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