第7章99偈

 

  人のいない林は楽しい。

 世人せじんの楽しまない

 ところにおいて、

 愛着あいちゃくなき人々は

 楽しむであろう。

 かれらは快楽かいらく

 求めないからである。

                   中村元博士訳

 

 

 

 

  解説

 

 この訳を、稚拙ですが、私なりに解説しながら書き直してみますと、「愛着なき

(世俗の欲望にとらわれない、煩悩ぼんのうを放れた)人々は、人里離れた林(中村博士は、ブッダの活動した地域には、森はないと指摘しておりますので、この林は木々の密集していないごく一般的な林であろうと思います。)を楽しむ。また、世俗の楽しまないところ(例えば、歓楽街や繁華街でないところ)を楽しむ。何故なら、彼らは煩悩から解放されていて、快楽を求めないからである。」

 煩悩とは、先にも何回か説明しておりますが、とんじんの心作用をいいます。

即ち、貪はむさぼりりの心、瞋は怒りのj心、は真理を知らずに迷う心をいいます。この

三煩悩を、心を悩まし、身を煩わす三つの害という意味で三毒さんどくともいいます。煩悩の根源は渇愛かつあいです。渇愛とは、喉がかわいている人が、苦しみもだえながら水を求めるような熾烈な欲望をいいます。愛着なき人々、即ち煩悩から解放された人々は、何故、人のいない林を楽しむのでしょうか。これについては、明確にお答えすることはできませんが、ちょっと飛躍しますが、私個人としては、それは自然と一体化でき、自然の声が聞こえ、自然と会話できるからではないかと思います。

 日蓮聖人は、文永11年(1271年)佐渡ヶ島へ流罪となり、2年四か月後赦免、その後身延山に住まわれました。聖人は身延山に入られてからも、法華経とお題目の広宣流布こうせんるふのため日夜戦い続けていたと思いますが、身延山のことを、「我此山は天竺霊山てんじくりょうぜん(インドの霊鷲山りょうじゅせん)にも勝れ、日域(日本)の比叡山にも勝れたり。吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、此の山には、妙法みょうほう五字(妙・法・蓮・華・経の五字)を唱えずということなし。」(波木井殿御書)と仰せられております。聖人は、自然の声を聞き、自然と会話されておられたのでありましょうか。聖人の自然と一体になった悟りの境地を伺うことができるような気が致します。                                                                        

                                      kenyu.o

  

  

     王舎城の竹林精舎・仏教最古の精舎。現ビハール州ナーランダ県。    

      2018.11.19撮影