第6章85偈

 

  人々は多いが、

 彼岸かなたのきしに達する人々は少ない。

 他の(多くの)人々は

 こなたの岸の上でさまよっている。

                            中村元博士訳

 

 

 

 

 

  解説

 

   大きな理想を掲げ、その理想に向かって、困難を乗り越え、日夜努力している

  人々は大勢おられると思います。しかし、現実は、その理想に到達する人は少な

  いのです。理想はその人によってそれぞれ異なるでしょうけれども、仏教の理想

  は、仏になること、即ち、「涅槃ねはん・絶対安らぎの世界・悟りの世界・彼岸ひがん」に到

  達することなのです。この彼岸に対するのが、此岸で、私たちの居る生老病死の

  苦の世界のことです。彼岸を目指しつつ、その彼岸に到達することのできなかっ

  た多くの人々は、この此岸に在って彷徨さまよっているのです。 

   彼岸に到達するには、どんな困難があろうとも必ず彼岸に到達するのだという

  強い「彼岸への志向」がなければ、到達することは不可能でありましょう。

   世の中には、苦労したくない人、努力したくない人、どうでもよい人等、人そ

  れぞれ自由でありますから、「彼岸」に到達したいという志向がなく、喜怒哀楽

  のある「此岸」の方が楽しく幸せだという人々も居られることと思います。

   しかし、此岸は、しっかりと観察すれば「三界は安きこと無し、なお火宅の如

  し、衆苦しゅうく充満して、はなは怖畏ふいすべし」と法華経に述べられているように、この世

  界は、火宅のようなものであり、苦しみが充満している怖畏すべき世界なので

  す。このことに早く気づき「彼岸」を目指さなければならないのです。

   日蓮聖人は、「うおの子は多けれども魚となるは少なし。菴羅樹あんらじゅ(マンゴー)の

  花は多くさけどもになるは少なし。人も又かくのごとし。菩提心ぼだいしん(彼岸・悟りの

  世界を目指そうとする心)をおこす人は多けれども退せずしてまことの道に入る者は少

  なし。」<松野殿御返事>おおせられております。

     誰でも知っていることであって、余計なことかもしれませんが、彼岸は物理的

  な距離のある対岸ということではありません。彼岸は、悟りの境地、即ち煩悩ぼんのう

  (執着)しゅうじゃくを捨て去った安穏あんのんな境地のことでありますから、到達することは容易な

  ことではありませんが、それに向かって努力するということを、分かりやすく説

  くために、此岸と彼岸という言葉を使って説明したのであろうと思います。

   いずれにしましても菩提心(悟りを得るために修行しようという心)をおこすこ

  とが最も肝要なことであろうと思います。

                                                kenyu.o

 

 

                                
 

 

  

  早朝のガンジス河沐浴場(ベナレス) 2018.11.15撮影