第5章62偈  

  「わたしには子がある。

 わたしにはたからがある」

 と思っておろかかな者は悩む。

 しかしすでに

 自己が自分のものではない。

 ましてどうして

 子が自分のものであろうか。

 どうして

 財が自分のものであろうか。

                         中村元博士訳

  解説

  「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。とは、 

 私には親孝行な良い子がいる、私には財産がある、と喜び、私の子が怪我や病気を

 しないだろうか、元気で長生きしてくれるだろうか、私の財産が盗まれないだろう

 か、私の死後に財産はどうなるだろうか、と思って愚かな者は悩む、というような

 意味でしょう。「愚かな者」とは、因果いんが無我むがの道理を知らない者のことだろうと

 思います。Oxfordの「The Dhammapada」では、childish person(幼稚な人)と

 訳していますが、仏教的にはもう少し詳しく説明する必要があると思います。

  「因果」については、法句経69偈で説明させていただきますので、ここでは

 「無我」について説明することにいたします。日本人の多くは、「諸法無我」しょほうむがとい

 う仏教用語を聞いたことがあるであろうし、おおよその意味も知っているのではな

 いでしょうか。

  「諸法」とは、簡単に言えば「存在する全てのもの」ということ、「無我」は、  

 「変化せず単体で存在している実体はない」ということになるでしょうか。言い換え

 れば、全てのものは単独で存在しているのではなく、お互いに依存いぞんし合って存在し

 ている、即ち、相対的そうたいてきな存在であるということになると思います。このことを仏教

 では縁起えんぎといいます。私たちは、両親にとっての子供、国にとっての国民、会社に

 とっての社員、というような社会的位置づけのもとに自分の存在を自覚していま

 す。こうした位置づけを除いては自分の存在はありえません。「すでに自己が自分

 のものではない」のです。当然に子も財も自分のものではありません。その自分の

 ものではないものに執着しゅうじゃくし悩み苦しむことは愚かなことです。先ずは「諸法無

 我」の真理を認めることが苦を克服する第一歩だと思います。

                                                                                                 kenyu.o

  

 

  ブッダ初転法輪像 the preaching buddha    

                                               サールナート考古博物館蔵