第3章41偈
ああ、この身はまもなく
地上によこたわるであろう、
ーー意識を失い、
無用の木片のように、
投げ棄てられて。
中村元博士訳
解説
自分が死ぬということは百パーセント確実です。やがて、意識を失い、役に立た
ない木の端くれのように、投げ棄てられてしまいます。現在の日本では死体そのも
のが「投げ棄てられて」ということはありません。この「投げ棄てられて」は、死
体の投棄という意味の他に、死後しばらくの間は、その人の生きざまを話題にする
ことがあるかもしれないけれど、やがてその人は完全に忘れ去られてしまう、とい
う意味合いもあるかも知れません。このように解しますと、死というものは限りな
く寂しく悲しいものだなと思います。富も愛も美貌も地位も名誉も財産も、私たち
が拘ってきた価値が全て儚いもの、無になってしまうのです。
日蓮聖人は、「人の寿命は無常なり。出る気(息)は入る気(息)を待つ事なく
風の前の露なお譬にあらず、賢きも愚きも、老いたるも若きも定めなき習いなり」
と、諸行無常をお説きになっております。続けて「されば先ず臨終の事を習う
て後に侘(他)事を習うべし。」(妙法尼御前御返事)と教示されております。
先ずは、老若男女生きとし生けるものは、百パーセント死ぬのだということをしっ
かり踏まえて、その次に、死ななければならない人生をどう生きるか、考えなさ
い。ただ無駄にだらだらと過ごすべきではない、と。
幸せ、安らぎ、悟りを求める修行は、自分がやがては死すべき存在であるという、
先ずはこの死の認識から始まる、ということを教示しております。
kenyu.o
早朝のガンジス河(ベナレス)火葬ガード
ヒンヅー教徒は、ガンジス河岸で死体を火葬して
遺骨を聖なるガンジス河に流します。
2018.11.15撮影