第1章18偈


  いことをなす者は、

 この世で歓喜かんぎし、来世らいせでも歓喜し、

 ふたつのところで共に歓喜する。

 「わたくしは善いことをしました」

 といって歓喜し、

 さちあるところ(=てんの世界)に

 おもむいて、さらに喜ぶ。

              中村元博士訳

 

 

 

 

  解説

 

  善い行いをした人は、「私は悪い行いをせず善い行いをしている」とこの世でそ 

 の行為を喜び、また来世でも善因善果ぜんいんぜんかの因果の法則によって、福楽の果報を受け喜

 び楽しむのです。即ち、「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あ

 るところ(法句経の時代では、在家者が求めたのは、天人や天の神々の住む天の世

 界で、出家者は、悟りの一歩手前の阿羅漢を求めて修行しました。)に生まれて、

 さらに喜ぶのです。「善いことをなす」とは、どういう行ないをすることでしょう

 か。

  善い行ないとは、どういう行ないかは、多くの人は常識的に知っていることであ

 り、善い行ないの具体的な例をいくつでも挙げることができるでしょう。

 「善い行ない」とは、仏教ではどのように定義するかについて考えてみたいと思い

 ます。「解説5」で述べた五戒を守る行ないが「善い行ない」であり、、もっと基

 本的には、とん(むさぼり)、じん(いかり)、(無智)、これを数ある煩悩ぼんのうの基本

 として三毒さんどくといい(*「解説1」を参照ください。)ますが、この煩悩にけがされな

 い行ないが「善い行ない」ということになるのではないでしょうか。

  ここで、煩悩について簡単に説明しておきたいと思います。煩悩は、サンスクリ

 ット語「kles'a」の漢訳語で、仏教の悟りを目指す修行の妨げとなるものという意味

 です。俗に百八とか言われるように煩悩は沢山ありますが、その煩悩の根元は、かつ

 愛(=喉がかわいて水を求めるような激しい欲求=事物に強くとらわれ、離れないこ

 と)である、と言われます。この渇愛から解放されることが、仏教の目指すところ

 であり、「悟り」と言われるものです。「悟り」までは届かないまでもそれに向か

   って努力している行いが「善い行ない」であろうと思います。

                                            kenyu.o

 

 

 

 釈尊絵伝「転法輪」(野生司香雪画/仏教伝道協会蔵)