TKR008 京町通・鍋屋町通
鍋屋 シンプル且つインパクトのある店名(@鍋屋町通)Google Map上に地名は見あたらないが通りにその名を冠する京町(名古屋)。町名由来を探ろうとググる(ウィキィペディア情報を転記)。・・・以下、転記・・・京町 (名古屋市)– 愛知県名古屋市中区にあった町名。現丸の内の一部にあたる。もとは清洲城下の町・・・転記おわり・・・この地・地域で、「京」の字を町の名前に用いたのは、徳川施政下でなく少なくとも織田以前ようだ。京町が信長公の「京」との因縁に少なからず影響を与えたのか、ハタマタその逆?。勝手な空想を展開するにも、それなりの後ろ盾がほしいところ。が、ウィキィーさんの知恵袋には更なる情報は望めず、検索ワードに「清須」を足して再検索。すると、「旧町名の概要と由来-旧名の復活をめざす会」(nagoya.com/content/summary.html)というサイト情報をゲットできた。「花の名古屋の碁盤割」のタイトルで、とある先生の著書の紹介&引用にて旧町名情報の解説が記されている。冒頭の京町筋を解説するくだりから引用。・・・以下、「めざす会」の引用・・・沢井鈴一先生のサイトを紹介させていただきます。 ここを見ると、旧町名がよくわかりますよ。http://1st.geocities.jp/s_suzuichi/花の名古屋の碁盤割 町名由来記(沢井鈴一先生執筆)京町筋片端通の南、西は五条町から東は萱屋町に至る横筋である。碁盤割の町筋の北端の通りで、裕福な商家が軒を並べていた。五条町京町筋の西端に位置する町である。云々(中略)京町京町筋の七間町より伊勢町までの間をいう。清須越の町で、清須当時の町名を、そのまま用いた。清須へ多くの商人が移り住み、呉服物、細物、太物類を商っていたので、京町と名付けられた。名古屋の京町は、清須の呉服物の商店が並ぶ町から、大坂の道修町に匹敵する薬種商の町へと変貌していった。代表的な薬種商としては、長崎から直接唐物の薬を仕入れ、販売していた生田治郎八。今川義元の家に代々伝わる今川赤龍丹を販売する日野屋六左衛門。価銀四匁五分の山帰来という薬を売っていた山口利兵衛がいた。現在も京町で商売をしている中北薬品の祖、井筒屋中北伊助が、この町に店をかまえたのは寛政年間(一七八九?一八〇一)のことだ。「好事魔多し」安政二年(一八五五)二月二十五日の夜、井筒屋の伊助方の風呂場より出火し、京町全域を燃え尽くしてしまった。井筒屋だけでも八千両の薬が灰になった。井筒屋は謝罪の意をこめて、毎月二十五日は風呂をたかないという。現在に至るも中北家では、この家憲を護っている。安政二年の大火をきっかけとして、京町は、さらに薬種商の町として発展していった。明治二十年には、漢方薬にかわり、初めて船来薬(洋薬)が京町で販売されるようになった。大正初期には薬祖神社をつくり、四十軒の問屋の守り神とした。町内には薬種商の他、町医の蘇森子桂が住んでいた。子桂は河村秀根(著名な国文学者で尾張藩士)に数十両の借財をしていた。借金を返すあてもない。そこで子桂は秀根が幕府討伐の密談を重ね、反逆を企てていると幕府老中松平右近将監の用人に密告した。負債を免れるとともに、賞金を得ようとして企てた事件だ。幕府が厳しく糾問した結果、誣告の事実が露見した。子桂は、江戸市中を引きまわしの上、獄門に処せられた。安永七年(一七七八)のことだ。京町は明治五年、両替町に併合された。明治十一年には再び京町の町名は復活した。昭和四十一年、住居表示により丸の内三丁目となる。・・・「めざす会」の引用終わり(一部、「云々」「中略」にて割愛)・・・信長公と京町の関係は依然としてはっきりしないものの、豊富なウンチクには感心するばかり。これ以上の信長公&京町の情報を望むのも無理かなと思い、もう一つ、「地名は見あたらないが通りの名前(通り名?)がある町」を第二弾として、「鍋屋町」(なべやちょう)について調べてみた。鍋屋町通は東西に真っ直ぐ続く道を京町通の東端の空港線(※)との交差点にて引き継いでいる"直線道の一区間"。城下町碁盤目直線道で通勤路のストリートレパートリーストーリーを語る上において、とても気に入ってる鍋屋町通。※名古屋市瑞穂区神穂町の松田橋交差点と同市東区東桜の高岳交差点を結ぶ、主要地方道たる名古屋市の市道である。全線にわたって「空港線」の愛称が付けられており、1984年に名古屋市が愛称を公募の上制定した。 ウィキペディアウィキペディアによると、・・・以下、転記・・・鍋屋町(なべやちょう)は、愛知県名古屋市東区の地名。1976年(昭和51年)1月18日、同区泉二丁目および同三丁目に編入され、消滅。・・・転記おわり・・・文切り型で、「消滅」と言い放たれた感じで、残るは通り名のみの鍋屋町。そんな鍋屋町通は、西の端の起点に「鍋屋」さんがあり、興味沸騰。まずは、ググって、鍋屋町通りを記述するサイトを発見。(一部を切り張り)上記の冒頭総括文面に鍋屋町の記述はないが、当該章立ての中に下記の鍋屋町商店街が含まれている。空港線とGoogle マップに載っていた道は国道41号線であることが分かった。水野家=鍋奉行ならぬ、鋳物師頭→金物商。徳川園の祭り「徳川園山車揃え」の内輪を配って回る知り合いの●野さん。金物商の血筋かどうか探ってみるのも一興?。最新映像目の前には高速道路の高架店先ガラス越しの鍋屋さんの店内中へどうぞという旨のメッセージガラス越しの店内2ガラス越しの店内業務用の思われる大きなシャモジというかヘラも展示(右端)されている。歩道橋から側面壁の窓を見ると、鍋がビッシリ。店先の右側に立て解説板尾張藩鋳物師頭水野太郎左衛門宅跡初め上野村(現市内北東部)鋳物師であった水野家は、永禄五年(一五六二)初代太郎左衛門のとき織田信長により尾張国中の鐘、鰐口(わにぐち)を鋳造する特権を与えられた。文禄二年(一五九三)二代のとき清須へ、慶長十六(一六一一)三代のときこの地へ移り住んだ。江戸時代、尾張藩の鋳物師頭を代々務め、国内の鋳物の製造・販売は全てこの家を経た。 市指定文化財の、性高院(しょうこういん)(千種区)や東別院(中区)の梵鐘(ぼんしょう)は同家の作品である。 名古屋市教育委員会Site of a Master Caster, Mizuno Tarozaemon ResidenceThe Mizuno family had been producing articles of cast metal for geberatuons. In 1562, Oda Nobunaga (1534-82) authorized Mizuno Tarozaemon, the founder, to cast the bells and other cast metals in the Owari district. In Edo period, the Mizuno family served as the authority of casting for the clan and monopolized the right to produce and sell cast metal products in this district.(市文化財の話は、海外向けには省略されている)番地の表示も特別現在位置の表示付きおわり【おまけ】名古屋・日泰寺の外壁沿いの道於(17:16)1月3日の月と金星(拡大)以上