ふたたび高速バスでB-Bagを使って富山到着。


ブロンプトン展開


西に進路をとって高岡城


ニカ国語案内


富山県史蹟 高岡城址

説明書きは後記(1)。

高岡城址公園


高岡古城公園のご案内

説明書きは後記(2)。


日本三大佛 高岡大仏

高岡大仏の光輪のお力か、観光客二人が、何故か太刀持ちと露払いを前にして「不知火型」の土俵入りのポーズ。

大きさ横綱級の高岡大仏


よく見ると太刀持ち役設定の左の金剛力士像は「太刀、持ってないよー」と言っているみたいです。
右の力士様は「太刀持ち!なにやってんだ!」と目をつり上げ、拳をあげて怒っている設定です。

そして何か事情を知っているため目をそらすかの如く、不自然に首を曲げてブロンプトンの折り畳み状態も連想させる鳳凰像。

「小さいことは水に流しなさい」と
語りかけて下さりそうな雰囲気を
出すよう画像処理を施した高岡大仏。

ところで、日本三ナントカといえば、江戸初期から日本を代表する三つの景勝地の日本三景。宮城県の松島、京都府の天橋立、広島県の厳島(宮島)。
一方の「日本三大仏」はというと、他の「三ナントカ、No.3を名乗るもの多数」問題が、大仏界でも議論の的。
高岡大仏のライバルは岐阜大仏。
落ち着いた面差しで、金を纏っているところは、現在のNo1、No2にさえもない、アピールポイント。


正面からみると、微笑んでいるようで、大仏界のローラと呼びたくなります。


オッケー!でないのは、大仏殿。
かなり地味な感じで、黄金の大仏が鎮座している雰囲気がなく、右側のコメダ珈琲店の方が目立っている。
(集客面もコメダに軍配が上がりそう)
場所は岐阜城の麓なので、観光客を呼び込めるエリアの筈が、観光客の目と気を引くような、粋な計らいというものが感じられない。関係者のNo. 3への気概が感じられず、ご近所の岐阜の大仏ながら個人的には高岡大仏No.3に同意。


話を富山とブロンプトンに戻し、日本海をバックにブロンプトンの写真。
昼間ながら、フラッシュONで蛍光反応部分の各所が光る。


城ヶ崎とブロンプトン
白いところが城ヶ崎


城ヶ崎


城ヶ崎の麓
阿尾城跡の表示


七尾城跡に到着


戦国の名城・七尾城

説明書きは後記(3)。


史跡七尾城中心部復元イラスト(画 中西立太 氏)


本丸北駐車場付近からの写真


能登島大橋(中央やや左)


つづく


      記

(1)富山県史蹟高岡城址
慶長三年(一五九八)利家の後をついて加越能三国の太守となった前田家二代藩主利長は慶長十年封を利常に譲り富山城に隠退したが慶長十四年三月同城は火災にかかり新たに高岡城を築城して町づくりを行った。
設計はキリシタン大名高山南坊(みなみぼう)右近が行い約半年後の同年九月十三日に入城した総面積七一、二六一坪(内水濠ニニ、四〇〇坪)あり城内は本丸、二の丸、鍛冶丸、三の丸、明丸に分かれていた
慶長十九年五月利長薨しまもなく廃城となり明治維新後民間に拂い下げられんとしたが時の高岡区長服部嘉十郎等の奔走により明治八年七月公園とし保存されることとなった。
昭和十八年七月富山県指定史蹟に指定、往年の水濠はそのまま遺存、水のある城跡公園として全国にも稀である。
高 岡 市
古城公園を愛する会

(2)高岡古城公園のご案内
□歴史
 高岡古城公園は、加賀藩2代藩主、前田利長によって築かれた高岡城の城址です。
慶長14年(1609)、利長は大火に見舞われた富山城に代わり、加賀・能登・越中の中心に位置する関野の地に居城と城下町を移し、高岡城と命名しました。縄張り(設計)を担当したのは、築城の名手と謳われた高山右近と伝えられています。
 慶長19年(1614)、利長が死去し、次いで大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、幕府の一国一城令により高岡城は廃城されました。しかし、3代利常をはじめ歴代の藩主は、城址を高岡町奉行の管理下において、米蔵や塩蔵を設置し、土塁や堰を残す措置をとりました。
 明治3年(1870)、金沢藩は窮民救済と農地増殖を目的に高岡城址を民間に払い下げる布達を出し、明治5年(1872)の廃藩置県後、七尾県は水濠を除く31,066坪を民間に払い下げる決定をしました。これに対して、高岡の象徴である「古御城」を壊すことについて高岡町民は反対の意思を示し、当時の第17大区区長(現在の高岡市長に相当)服部嘉十郎ら高岡町民融資による公園指定請願運動が起こりました。
 明治6年(1873)の公園条例(太政官布告)、翌年の射水神社の遷座もこの運動を後押しするものとなり、明治8年(1875)7月に「高岡公園」として指定され、今日の高岡古城公園が誕生しました。

□特色
 高岡城跡は、日本の築城技術が高度に発達した慶長期の縄張りを完全な形で残しており、近世初期の城郭構造を知るうえで貴重な遺構として全国に知られています。
 城址全域に及ぶ公園面積は約21万㎡と広大で、しかもその1/3が堰で占められており、全国有数の水濠公園です。
 春は桜が一面に咲きほこり、夏は新緑が豊かに生い茂り、秋は紅葉が燃え盛り、冬は木々に雪が積もる。
 野趣あふれる公園内では、四季折々の彩豊かな景色が訪れる人々を楽しませてくれます。

□石垣
石垣
 二の丸から本丸にわたる土橋の両側には、築城当時の石垣が残っています。
 内堀側の製材を調べたところ、高岡から氷見の海岸で切り出される砂岩が4割、残りは県東部で切り出される花崗岩や安山岩が用いられています。
 石には岩を断ち割る際にくさびを打ち込んだ「矢穴」のほか、60種類余の文様・記号を刻み込んだ「刻印」を見ることができます。

【高岡古城公園ゆかりの碑】
①前田利長公銅像 
②遺徳碑 瑞龍前田公遺徳碑 
③顕彰碑 高山右近顕彰碑  
④顕彰碑 服部嘉十郎顕彰碑

(3)戦国の名城・七尾城
七尾城は室町幕府三管領の一つ、畠山氏から分かれた能登畠山氏の居城である。
石動山山系の北端に位置し、標高三百米の尾根に長屋敷(長殿丸)・本丸・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪(くるわ)を配置、この尾根から枝分かれする幾筋もの尾根にも大小無数の砦(とりで)を配置している。それ故に、七尾という地名は、七つの尾根に由来するという。
築城年代は明らかではないが、戦国時代に入ってから逐次拡張・増強されたとみられる。永正・天文(一五〇〇年代前半)の
時代は最も政治的にも安定し、文化が栄えた。大永六年(一五二六)当代一流の歌人冷泉為広・為和父子が七尾城に来訪し、天文十三年(一五四四)の記録では、城山山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なったと見える。
 天正五年(一五七七)、越後の上杉謙信の攻略にあって落城、能登畠山氏は滅亡した。
 本丸から三の丸にかけての一帯は、地形を巧みに利用した規模雄大な縄張と、石垣・土塁・空堀、それらを備えた曲輪の保存状態が良いというので、昭和九年十二月二十八日国の指定史跡となった。(七尾市)

以上