平成28年2月18日 22時53分
俺の実兄が亡くなりました。
そして22日、葬儀が行われました。
思えば1年半に渡る闘病生活だった。
すい臓がんと聞いたとき、俺にはよくわからなかった。
俺がよく行く医院の先生に聞くも、渋い顔しかしなかった。
そんなに難しい場所なのか・・・・。
さらに転移もすでにある状態だと告げると
先生の顔がより渋くなったことを覚えている。
数日前から急変し、先週は俺も病院へ足を運ぶ回数が増えた。
俺は、身近の人間の生きるか死ぬかの闘病生活や介護を経験したことがなかった。
実際、地元を少し離れてしまっている俺は何をしてやれるわけでもなく
ただ、見守ることしかできなかった。
だからたまに兄貴の顔を見ると、元気にしゃべれるときはいいが、
苦しそうに痛みに耐え、呼吸もつらそうな時には、
もう見てられなかった・・・・・
俺が思う、兄貴との思い出っていうと
親戚を含め、多分参列された人たちもここ20年ぐらいの思い出が思い出されるのではないか。
俺はというと
強く思い出されてくるのは20~35年前の記憶である。
5つ離れている俺たちは、遊びの主導は常に兄であり
俺は金魚のフン状態でいっつも後を追い回していた。
やることなすこと何でもマネした
小学生のころ、
兄貴は誰とでもすぐに仲良くなるので、下仁田のじいちゃんちの周りの子らともすぐに遊びだす。
おれもそれに混ざって遊んだ。
じいちゃんちから200mぐらい離れた駄菓子屋にいっしょに買いに行くのが楽しかった。
そこで買ってきたビッグワンガムの付録のプラモを一緒に組み立てるのが楽しかった。
そしてなぜか冷蔵庫ではなく、じいちゃん家と裏の石垣の間の日陰に置いてあるビンケースに入っている三ツ矢サイダーやキリンレモンをとんがりコーンに注いで食い飲む。
茶碗のご飯を皿にプリンのようにぱかっと出して、そこに大きく平に焼いた卵焼きをのっけてオムライスのように食う。しょうゆ味である。
ラーメンを作ってハンバーグを入れる。
ベビースターラーメンをラーメンのようにお湯を注いで食う。
サッポロ一番のインスタントラーメンを茹でずにそのまま粉末スープをかけてバリバリ食う。
その他いっぱいろくでもないことをしたもんだ。
親の前ではできない馬鹿なこと。
とっても楽しい思い出だ。
兄貴はばかなことを思いつく天才だった。
兄弟で釣りにもよく言った。
家の近くを鏑川が流れていて、そこにオランダ仕掛けをぶん投げてハヨやらガラッパを釣りまくった。
大塩湖へもチャリでよく釣りにいったもんだ。
兄は中学から吹奏楽にのめりこみ、なかなか遊ぶ機会が減ったように思った。
その頃には俺も小学校の友達と遊ぶようになっていたのだろう。
親戚は車好きが多く、免許を取った兄はやはり車いじりを覚え
当時母が乗っていたスーチャーのスプリンターを乗り回していた。
俺もそれにあこがれ、車という存在を知り始めたのだと思う。
当時ナイトライダー全盛期である。
やがて俺が中学生になり、初めてディズニーランドへ連れて行ってくれたのは兄夫婦だ。
地元の田舎しかしらない中学生が知る、都会のディズニーには衝撃を受けたもんだ。
数年後、兄が主導する吹奏楽団がディズニーランド内で演奏する機会があり、
うちら夫婦はビデオ撮影やフォローで同行した際は、
ディズニーのキャストとして裏口から入園したことを思い出す。
大型免許をもち、観光バスの運転手の仕事もたまにやる兄は
自分の運転するバスで楽団を率いての大仕事だったな。
親父が地元の消防団の音楽隊で活躍する姿に憧れ
中学から吹奏楽に没頭した兄。
俺も少なからず影響を受け、音楽は好きだ。
兄は親父から音楽という人生の道というか喜びというかを学び、その道では親父を越えたんだな。
俺は兄から車というものを教わり、没頭し、その道では兄を越えた。
うちら一族はそうやって先人から学び、人生の糧というものを追求してきた。
熱中できるものが見つかるということだけでも幸せなことだ。
だが、もう兄貴の車をいじってあげたり、
わけのわかんねぇもんをつけるのを手伝ったり、
バイクのパーツをつけてあげたり
年中「あの車にこのパーツは付くんかなぁ~?」という問いに答えてあげたり
・・・・もうやってあげられないと思うと、・・・・・・・・涙があふれてくる。
俺ら兄弟はそうやって一生車遊びをするもんだと思ってたからさ。
俺にとっては、本当にやさしい兄貴だった。
俺が中2の時、当時現行だったS13が死ぬほど好きで、
ディーラーで13のカタログとオプションカタログをもらってきてくれた。
今も忘れぬ、表紙にART FORCE SILVIAというキャッチのカタログ。
その日から13に乗り出す18歳まで、そのカタログを見ない日はなかった。
俺の希望はなんでも聞いてくれる兄貴だった。
どこにでも連れて行ってくれる兄貴だった。
思い出を、思い起こせばそれこそきりなんてあるわけがない。
今は、・・・ただ、ただ、残念なだけです。
世の中にはがんばってもどうにもならないこともある。
今回それを思い知らせれる結果となりました。
順番の違う”死”というものに直面し、心の中にぽっかりと何か穴があいたようである。
時間というものがそれをじきにいやしてくれるのであろうか。
でも少しだけ癒されることがあった。
通夜の日。
通夜式を終えて家に帰った。
もう20時を回っていた。
子供たちの風呂と寝かしつけを終え、ちょっと横になるかと、
寝転んで、リビングの時計を見ると、
1年以上止まっていた振り子が動いている。
もう振り子の電池はとうの昔に切れていて
少なくとも1年以上は動いていない。
でもね、・・・・・・・・・・・・・うごいてんのよ。
来てくれたんだな!
俺にはわかったよ!
ありがとうな!!
翌朝、振り子は止まっていた。
それ以来動いていない。
俺は霊感もくそもないけど、信じるよ!!
通夜と、告別式と500人の人たちに見送られた兄。
もう会えないのか。
違和感ありすぎる。
これが死なのか。
天国でその多趣味っぷりを大いに奮って遊んでもらいたい。
天国で楽団を編成し、演奏会をやってほしい。
天国で乗る車にナビやら電飾やら社外パーツをつけて遊んでほしい。
わかんねぇことがあれば俺に聞きにきてほしい・・・・・
気持ちの整理などつくはずもない。
何を言っても現実がかわるわけじゃない。
この世は残酷だ。
その残酷な世を、兄との思い出を胸に秘め、また歩き出そうと思う。
ありがとうよ。兄貴。
忘れねぇし、忘れるわけがねぇ。
ずっとね!!!!