お話
破顔した顔で口許を両手で包み込むようにして、喜びをその小さな手の中に押し込めるように
妻が心底喜ぶ時見せる姿が思い描かれる
想像しただけで思わず顔が綻び、情けなく緩む己の顏への照れ隠しに、誤魔化すよう小さく俯いた
俯いたままチェヨンは、手に握りしめた愛しい人への贈り物に視線を向けると
慈しむような柔らかな目をして、満足そうに見つめたのだった
都へと敵兵が押し寄せ、開京を離れてからだいぶ月日が経つ
しかしながら、戦況は好転を見せずに、今だ一進一退の攻防が続いている
天界から来た妻ウンスも、起こる戦の仔細までを記憶しているわけではない
いつどの様に高麗軍に転機が訪れるのか、まったく予想も出来なかった
ただ、イムジャが確実に言える事は、”絶対この戦いは大丈夫だから!”と…
今出来る事と言えばそれを皆が信じ、各々が戦場で死力を尽くすのみだ
ウンスもチェヨンと共に都を離れていた
婚儀の折に妻へと贈った、亡き母の形見の櫛は屋敷に置いてきたままだ
今頃どのような有様だろうか…
いつの日か戻る事が叶うのであれば…
出来れば無事であってくれと願いを込め、チェヨンは少しの間瞼に力入れ閉じた
しばらくすると俯かせた顔を上げ、険しい顏で遠く開京の方へ視線を差し向けた
遠く立ち上がる煙が、ゆらゆらと都を不穏に包み込んでいるようだ
心の奥がズシリと重く痛む
しかしウンスが無事でいる事が、チェヨンによっては何よりであるのだから
それもすぐ傍で護る事が出来る、その事が心から有り難く思うのだった
風呂の好きなあの方が、もう随分とそれが叶っていなかった
此の地で出来るとすれば、温めた湯に手拭を浸し、それで体を拭う程度だ
チェヨンは細く柔らかなウンスの髪が、縺れ乱れているのが気になっていた
今思えば平和だったとさえ思えたあの頃に、何度触れたいとの欲を抑えた事だろうか
目に留めれば、視線は奪われ、魅惑され…不思議な色香を放つあの方の赤毛の髪
ウンスの髪は櫛で梳いてやると、薄ら光を宿し絹糸のように美しく繊細な線を描く
時間が取れる時は自身の日課だった
此の場所ではそれすら望めない
些細な時間がどれほどかけがえのないものかを、まじまじと突き付けられるようだ
櫛の先に毛が引っかかって痛い、もっと丁寧にやれ、髪を梳く時間が長いだのと…
ぶつくさ時々文句を垂れるウンスを窘めながら、髪を愛でる時間がとても好きだった
それは、イムジャから言わせると、天界では”ふぇち”と言うのだとか
特に髪に執着をするふぇちを、”髪ふぇち”と言うのだそうだ
「ではイムジャは、何ふぇちなのですか?」
気になってそう問いかけた
しかし、問われたイムジャは俺の全身を頭の先から足の先までを見眺めて
唇をギュっと引き、ふふっと微笑んだだけで、答えは教えて貰えなかった
今はどうにもならぬと諦めていた
だが俺は今日、敵地の偵察のために向かった先で、小さな市を見つけたのだ
胸がとくっと小さく弾んで見せた
俺がこれでは、部下に示しがつかぬな…と
湧きあがった疾しい思いに、自分へと呆れた笑いを漏らす
市を見つけ、大護軍自らが私欲のために、思わず足を運んでしまったからだ
他ならぬ俺が、呆れて物も言えぬ
あの方のためにと嘯いてみても、すなわちそれは己のためでもあるのは明白だ
チェヨンは早くウンスの喜ぶ顔が見たくて、愛しい妻の元へと足を速めたのだった
***********
「ふふっ、似合うかな?」
肩につくかつかないかという髪の先を指で挟むように、くるんと内側に撫で下ろした
こんなにバッサリ切ったのは、もう何年振りだったかしら?
ウンスはそう思いながら、自分の髪型の歴史を順を追って思い返していた
中学生の時は長かったから、確かボブにしたのは高校時代かな?
医大に入ってからは、結わくのが日常だったため、長く保っている事が多かった
改めて思い返してみると、やはり相当久しぶりであると、分かったのだった
ぎゅっと、唇を噛みしめる
こんな髪型にしたら、普段だったらきっと…かなり呆れられちゃうわね
チェヨンのためとはいえ、隠れて悪さをしたような悪戯心もどこかであった
時代的にも添うような髪型ではない事は、流石のウンスでも十分理解をしている
でも、今高麗はそんな事を、悠長に気にかけていられるような状況ではない
ふふっ、今だったら、仕方ないって、皆にも許してもらえるわよね♪
おそらく、これが私の人生最後のヘアアレンジ。いわばイメチェンね
ここでの、最初で最後の…イメチェン。 そう考えると何だか可笑しい
見なれぬだろう髪型を夫に見せる事が、照れくさい気分もあって…
新しく手に入れたチェヨンの衣を、満足げにぎゅぅと握りしめ、その中に鼻先を埋めて誤魔化してみた
それにしても、こんなものが売れるなんて、昔の時代も悪くないわね
価値って分からないものだわ
そう思いながら、残った髪をつん、つんと引っ張ってみた
この地にだいぶ慣れてからも、便利な環境を知るウンスにとっては、不便だと感じる事も多くあったが
古き良き時代を感じる事も少なくない
これから目にするだろう硬直した表情で驚いた夫の姿を想像して、その中で笑いを必死に堪えた
「イムジャ戻りました」
その声は待ちわびた夫の戻りだ
あらっ、帰って来たわ
何と言ってもらえるか期待が高まる
ウンスは髪をもう一度撫で下ろすと、漏れ出そうな笑いを押し込める
驚く事は安易に想像がつくが、結構自分でも似合っているのではと、妙な自信があったのだ
髪が短いと若く見えるしね♥
「あなたお帰りなさい」
迎えの声をかけながら、隣の部屋からひょいと顔を出した
照れくささもあって、姿をすべて見せずに、様子を窺うよう頭だけヒョコッと覗かせてみた
「えっ…」
しかし、その舞い上がった期待は、一気に地面にたたきつけられたようだった
ウンスは反射的に驚きの声をあげた
何故なら目に飛び込んできた、夫の表情が想像以上に険しいものだったからだ
「あっ…おっ…お帰りなさい…」
怯んだウンスは慌て、戸口の前で茫然と立ち尽くす夫にもう一度声をかけてみた
しかし、チェヨンはその場で、氷固まったように、驚愕の表情を浮かべていた
やっ、やだ、なにその顔…
えっ、そんなに変だったかしら?
呆れを越えたような表情に、事の次第をすぐさま理解したウンスは、がっくり肩を落とした
チロリと視線を送ってみると、睨み返されるどころか無表情で微動だにしない
それが余計に怖い
あ~ん、やっぱり駄目だったわね…
浮かれ気分から一転し意気消沈だ
これからきっと小言が待っているのだろうと覚悟を決めるしかなそうだ
ウンスは落ち込み、唇をび~と歪めると、しぶしぶ姿を現したのだった
「あなた~♥」
夫のご機嫌を窺うよう、引き笑いを浮かべながら、少し鼻に掛け声をかけてみる
「……」
しかし、無言が突き返される
「あはは…」
まずい、やっぱり怒ってる
「…それは…」
声色からもはっきりと伝わってくる
それも相当怒っているわよね…
「髪の毛?えっと、ヘアチェンジって、あの…イメチェン、って…」
まさかこれ程とは思っていなかった
すっかりテンパって、次から次へと口から出てくるのはカタカナのオンパレード
夫には理解出来ぬであろう、言い訳の言葉しか思いつかなかった
「へあちぇんじ…」
「あっ、えっと、印象を変えてみたっていうか、その…お洒落よ、お洒落」
あちゃぁ、髪を短くって、そんなに悪い事をしてしまったの??
もしかして、私ったら、久しぶりに大失態しちゃった???
時々犯してしまう禁忌も、ここ最近ではだいぶ少なくなってきていたのに…
この人の妻となり数年が経ち、高麗の仕来りにもだいぶ慣れたつもりだった
まさに、後悔は先に立たず、どうやら自分の思い上がりだったようだ
「なに故…そのような…」
チェヨンは言葉に詰まる
その様子からして、余りの衝撃に上手く言葉にならない程のようだ
「まずかった??でも、やだわ、あなたったら大げさなんだから…」
髪の毛を切っただけで、何が起きたのかと思う程の夫の反応に戸惑った
「自分で切ったのですか?」
少し落ち着いたのだろうか、チェヨンは今度ははっきりウンスに問いかけた
「はい…自分で…やりました…旦那様…」
鬼神様のご機嫌を取るように、旦那様と言葉尻に付けてみたが…
「何故です」
しかし、それはあっさり流され、次の質問を浴びせられる
質問と言うより、夫の表情からして、これは尋問の一種だろう
矢を浴びせられるような心境に、ウンスは心の中で大きなため息をついた
「えっと…物々交換っていうか…」
本当は言いたくなかったが、妻の自分でもたじろく程の、突き付けられる強い視線
ただ切ったでは、どうにも許されそうにもないと悟って、秘密にするのは諦め、正直に話す覚悟を決めた
「物々交換とは…なんです?」
髪を失った妻から、思いもよらぬ言葉が返されて、チェヨンは目を大きく見開いた
「だから…その…ほらっ、これ」
そう言うと、ウンスは手に握った、紺色の真新しい衣を目の前に差し出した
「これは…」
「あなたのよ」
「俺の…?」
何事が起こったかと思えば、物々交換、そして、目の前の衣が、俺のだという
「イムジャ。きちんと、その訳を説明をしてください」
チェヨンはウンスの手を引くと、部屋の中を引いて寝台に連れて行く
そして座るようにと、両方の肩を抱え、そこに腰をかけさせた
自分もその横に座るとウンスの方へと体を回し、手を包み込むよう握りしめる
「どういう事です?」
薄々、チェヨンも気付き始めていた
「言っても怒らない?」
「怒ってなどおりません」
先程までの堅い表情は崩れ、眸には柔らかな光が戻ってきている
ウンスも少しほっとする
「ただ、あまりに、驚いただけです。イムジャ、何故…」
そう言って、握った手を一つ離し、すっかりと短くなった髪を確かめるように撫で下ろした
「俺のためですか?」
真っ直ぐに眸を覗き込まれる
この目には逆らえないと思う
「あなた…ここ暫く、着替えも全然してないでしょ…替わりがないから、洗ってもあげられないし…だから、私…」
ウンスは夫が血に塗れた服を、脱ぎ去る事が出来ない事が、気にかかっていた
夜の間はそれを脱ぎ去る事が出来ても、一晩で乾くような季節ではなかったから…
四六時中、血痕の匂いに包まれて過ごす
夫をそんな苦痛から、せめて少しでも取り除いてあげたかった、だから…
「そのために、あなたは…」
「だって、こんなものが価値があるって言うんだもの。天女の御髪があれば、戦の難を逃れられるって…」
信じている村の人には申し訳ないけど、この人がきっとみんなを守るよう尽くしてくれると信じて…
だから、ごめんなさいって思いながらも、村の人たちに甘えちゃった
「ふふっ。だからね、これとね、物々交換しちゃったのよ」
自分の髪に価値を見出してくれるなんて、私にとっては渡りに綱だったから…
小さな舌先をぺろりと出してから、気まずそうに笑顔を見せたウンスの姿に、胸が強く締め付けられた
「イムジャ、あなたという人は…」
チェヨンは胸が締め付けられ、それ以上の言葉を発する事ができなかった
「それにこの方が、髪が絡まなくっていいでしょ?短い方が何かと便利っていうか、効率的っていうか」
いつもの元気を取り戻したウンスは、少し鼻を高くし明るく言って見せた
けなげな妻の姿に想いが込み上げ、大きなため息をふぅと一つ落とす
「イムジャ後ろを向いて」
短くなった髪が無性に愛しく思える
そしてチェヨンは、懐からウンスに贈るはずだった、一本の櫛を取り出した
「えっ…あっ…」
胸元から出てきた櫛に驚くと共に、ウンスは先程見た夫の表情の訳を知った
「あなた…どうして…」
「向こうを向いてください」
「ねぇ…それ…」
「イムジャ、向こうを…」
質問の問いには答えて貰えず、くるりと後ろを向かされ、どうして?まさか?と、心の中で繰り返した
短くなった髪に、櫛を通していく
優しく、ゆっくりと、慈しむように…そうしているうちに、ウンスも夫の真意に気づくのだった
「あなた…もしかして…」
「今日、市で求めてきました」
「あなた!」
しかし、振り返ろうと、体を回し後ろを向こうとするのを、チェヨンの大きな手で戻され遮られてしまった
「イムジャ動かないでください」
「ヨンァ…」
「黙って」
相変らず優しく壊れ物を扱うように、短くなった髪を掬い上げ梳いてくれる夫
「まるで賢者の贈り物(※)だわ…」
ウンスは独りぼそりと呟くと、浮かび上がった涙を耐え、微笑んだのだった
※賢者の贈り物
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