について述べる私の7人目のツインフレームの彼女の話
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この記事は、彼女が「2024-02-23」に書いた記事です。
その時私は、必要性は感じながらも、あまりこの話を引用したいとは思わなかったのですが……。
まぁいいでしょう。
「舞台は整った」とそう言うことなのでしょう。
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彼女は前書きに、
3種類の価値観
従来の価値観を、
・金銭的価値観
・精神的価値観
として2種類を認識していたが、ここで3種類目がやってきた。
それが『エネルギー的価値観』である。
金銭的価値観とは
~中略~
欲しいものを買うときに自分の生活基準や貯金残高、生活的な必需品である等を判断し、お金を払い買う行為のなかに私たちは『自分に見合う金額なのか』を理解することを金銭的価値観とする。
また、金銭的価値観の感覚が発達することにより、モノに対しての金額設定を行うことができるようになる。しかし、それは精神的価値観などを差し引いた『モノそのものの金額』としての認識になる。
情報教材など「あいまいなもの」に対しての金額設定は難しいとして考えている。
精神的価値観とは
~中略~
かっこいい、かわいい、気に入った、自分の為になる。そこにある精神的充足感に対して『お金を払う』行為そのものが精神的価値観となる。
この精神的価値観の段階では『モノ』のみならず『目に見えないもの』に対しての支払いが生じる。
情報に対しての支払い(本や知識など)が生まれ、そこに見えない価値を見つけることになる。これが精神的価値観にあり、ツインレイ情報を購入する行為もここにあたる精神的価値観となる。
この段階では見えないものに対しての金額設定をすることができるようになる。
―以下略―
エネルギー的価値観とは
今回のお題目であるエネルギー価値観とは、エネルギー的な価値観を見ることにある。
~中略~
金銭的価値観と精神的価値観が結びつくとき、私たちはエネルギーにより解釈を始める。
それは『金銭的価値観が精神的価値観に相当しいわけではない』ということでもあり、私たちは見えないエネルギーにより多くの帳尻合わせをするようにしているって話でもあるんだ。
今回は、このエネルギー的価値観についてを詰めて話してきたいと思っている。
と言うこの前提で話がはじまっています。
で、まぁ詳しい説明がはじまるのですが……。
今回私がこの話を引用したのはとある狙いがあるからです。
その狙いドンピシャで引用します。
なので若干、前後不明な部分が出るのですが、これは彼女の渾身の文章すべてではないと言うところでご了承ください。
エネルギー的価値観による収入とは
エネルギー的価値観による収入だが、もし、私がこのツインレイサイトをすべて丸パクして記事を作成し、その記事作成により収入を得ていたり、支持を受けれていた場合、その内容で得たお金などはほとんど『価値がないにも等しいお金』的な解釈でいいんじゃないかと思っている。
それでも頑張って書いた時間などの価値観は生まれたりもするように思うが、そこにある『価値を生み出した創造性』に対しての価値は生まれない。
お金の使い道として満たされるようなお金の使い方(精神的価値観を持ったお金の使い方)ができないお金となる。
たとえば、使わないブランド品を買って仕舞いこんでしまう、とか。けっきょくは何も使わずに捨てることになった、とか。マイナスの金額分だけ詐欺にあう——とかもある。
エネルギー的価値観から見ると「みんな平等世界」に存在している。つまり、1円しかない人も100万円持っている人も、同じだけのエネルギー的価値観しかない可能性があるんだ。
たとえば、1円を稼ぐのに5時間かかった人と、100万円を稼ぐのに5時間かかったとして、どちらも能力は同じだとする。すると、1円=100万円ってことになる。
つまりあるからいいってわけじゃない、あってもそのお金を手に入れたルーツに意味がある。つまり背景だ。
こうやって私たちがどれだけ苦労してお金を稼いだのかって話でもある。だけど苦労して手に入れていないお金は消える。これは本当に『消える』し『融ける』ものだと思われる。それが如何様にして消えるのか、融けるのかはわからないが『なくなるお金』として考えたほうがいい。
なんなら『消えたお金』に対して文句が出るとき、そこには余計にマイナスがつくから再び消えるお金がでてくる可能性があるから注意が必要。
ゆえに頑張ってお金を地道に稼ぐとは大事なことで、楽に大金を稼いだからといってそのお金に『価値がある』とは言えないんだ。
もしかしたら、そのお金の稼ぎ方に問題があるとき、そこにエネルギー的価値観が生まれない。
エネルギー的価値観による『徳』とは
エネルギー的価値観のなかで収入がどのように得られるのか、そのルーツによってエネルギー的価値観の変動が生まれることがわかったかと思う。
その多くは「どれだけ時間を費やしたのか」「どれだけ苦労したのか」「どれだけ努力をしたのか」等の話でもあり、また、その苦労を買ってでた人たちが持つお金のエネルギー的価値観はとても高いゆえに、得た収入の使い方は『自分を満たすためのお金の使い方』が出来るようになる。
しかし、そのお金を楽して手に入れた場合は、そのお金の価値がドーンと落ちるわけである。
さて、そのなかでもエネルギー的価値観のなかでひときわ徳があるって話だ。これが『人を育てること』だったりする。
これがとても簡単なようでなかなか難しいことだったりもする。その人へ何か新しいもたらしを与えようとしても、与えようとして与えられるものでもないし、育てようとして人は育たない。
与えようとしても与えらないし、与えたことがある人にはよくわかることかと思うが与えようと思えば思うほど受け取ってはもらえないものなのである。
なんなら与えようなんて思っていない時の方が与えているときも多い。
つまりこれが『徳』に相応してくる。
なにかしようだなんて思っていないけれども、勝手に提供しているものがあって、それを勝手に相手が受け取っていく。この無自覚なる循環が『徳』なのである。
また、その無自覚なる循環のなかで受け取る側には受け取るだけの徳があり、提供する側には提供するだけの徳がある。つまりここで授受がしっかりと成立することはたがいに存在する徳ゆえにある。
~中略~
絶対的価値
絶対的価値というものはエネルギー的な循環のなかに存在し、その価値は常に私たち個人に由来している。
集合的無意識のなかでやりとりをされている価値観は『絶対的価値』にあるが、その価値は常に変動しているため、この人にとって良い結果をもたらしたものだからといい、ほかの人にとって良い結果をもたらすとも限らない。
私のツインレイ情報も役に立つ人には役に立つし、役に立たない人には役に立たない。理解する人もいれば、理解したと思っても曲解している人もいる。つまりそれが『徳』というものに依存している価値観にある。
もし、情報に対して文句ばっかり言っている人たちは『情報に対しての曲解』をすることになり、正しい情報が得られなくもなる。そんな人に情報を与えたとしても、それが価値ある情報にはならない。
しかし、情報を得られていることに感謝している人たちには『正しい情報を与えよう』と世界がまわるようになる。その人たちは正常な判断により価値を得るようになる。
ただ、集合的無意識のなかでの『絶対的価値』は絶対的にある。しかし受け取りてにより流動している状態にある。
話として、そうなのかな? と言うものはあります。
彼女が前提として述べている内容のすべてを、私が理解している訳ではないのです。
だから、彼女のこの話がすべてとは言いません。
ただ、私はなんとなく日々の中や日常で、何かを垣間見ているようなこともあります。
それの説明はできない。でも、だけど。
確かに何かを、感じている。
ようなものです。
そう言うものをこうやって理論で説明するのは、彼女がしたいことなのです。
だから私は、せいぜい、活用してやります。←言い方。