すっかり筆不精になってしまった。地震に揺られて気が回らなかった。

事態は深刻だ。震災と津波は現代日本にとって余りにも衝撃的だった。とりわけ自分も含め、戦後生まれには免疫のない状況ゆえに。

地震発生後、電車が止まり、やむ無く都内を歩き出した。一号線を辿りながら、自由な歩幅を刻むこともできない状況に、けたたましく鳴り響くサイレンと明滅する赤ランプに、夢見心地の気分を味わった。こんなことが自分逹に降りかかろうとは、信じがたい気分だった。海の向こうで展開する戦争に驚きなど感じもしないのに。これが有事かと。

大変なことになると予感した。実際、未曾有の事態なのだが都内から緊張感は薄れつつある。この楽観視の風潮は世界大戦以来、危機を体験しなかった日本の惰性なのだろう。


震災からの復興はやがて達成されるだろう。ただ、福島原発の収束はまるで見えない。まだ有事は終わらない。

今回改めて思ったのは日本国の堕落。もとより政府に絶望を抱いていたが、彼らの底はまだついてなかったのだと震災後の対応が教えてくれた。本来ならマスコミが尻を叩くべきなのだが、無能なのか懐柔されているのか単なる御用メディアと化している。明らかに怠慢と隠蔽があるのに、座視している。

復興の旗手は政府しかなりえないのに、未曾有の危機に頼るべき政府はよりによっての愚者連合。日本国民に依るべき希望はない。 不幸な時代だ。

齢27歳。生まれてこのかた日本が活気に沸いた状況に逢ったことはないが、現状では震災以前が良い時代だったと錯誤してしまう。

アメリカの強さを知る機会にもなった。さっそうと被災地に現れ、支援策「operation tomodachi」を発表した。日本国民の心を深くつかんでしまった。大衆は、すでに日本政府よりアメリカの方が頼れると思いつつある。作戦名に日本語を入れるあたりと演出の上手さには舌を巻く。自国民に見放される政府なんて、恥ずべき事態なのだが、鈍感にも管内閣には触発される様子はない。

こうしてアメリカが手を差し伸べてくれることは単純に喜ばしい状況とは言えない。アメリカの外交手腕を思えば、この機に乗じて、日本相手に深く斬り込む一手を打ったに違いない。

これだけの借りを作った手前、日本は今後アメリカに対して益々弱腰にならざるを得ない。国民感情もアメリカに向いた。震災以前に比べさらにアメリカに対し立場を悪くし、良いように蹂躙されるだろう。

アメリカ礼讚の様子を見ると、原発を二度も落とし、日本を良いように骨抜きにしていったマッカーサーを涙ながらに見送った事態がまた繰り返されるのだなあと日本の成長のなさを思ってしまいもする。

アメリカは強い。日本には他国の窮状に乗じて外交を運ぶしたたかさはない。アメリカのみならず、国境を他国と陸続きに持つ国々とは歴史的に培ってきた外交の能力、政治力が違い過ぎる。日本は世界を主導する国にはなれないのだ。改めて震災が実感させてくれた。

そうと認めれば、日本らしい独自の国作りに転換すれば良いのだが、世界大戦に突っ切ったかつての政府のように、管のように分不相応なプライドが舵を誤らせる。


いい加減嫌気が差してきて、まっとうな政治が展開されることが未来永劫期待できない日本なら、いっそ諦めてJAPAN STATEにしてもらった方がマシかとも思ったりもしてしまう。

まったく救いのない時代だ。

でも希望は持ってたい。
と虚勢は張ってはみるけれど。


 自宅にパソコンがないため、更新は仕事終わりの会社から。




携帯からだと、どうにも思考にタイプが追いつかないため実力の6割くらいしか出せない。




だから更新する時はパソコンからにしている。絶対的な実力がなんぼのものかは自分でははかりかねるが、6割しか出ないのだ。




 いざ素敵な文章を書く!謳っているからにはとりあえずのアリバイ程度に2、3行というわけにはいかない。




とすると、意外に時間を喰う。このブログは思いのほか、負担になりかねないと弱音を吐きたくなる。






 初投稿から閲覧数は22日が6、23日が4。自分の足跡もカウントされているとするなら、実質は2、3人といったところか。もしくは1人か。少なくとも自分以外の誰かが1人いるには違いない。




どこから迷い込んでくるのか、不思議なものである。




 とりあえず、訪問者を増やすための策を講じてみようと思う。検索の上位に来ると思われるキーワードをさりげなく散りばめるのが良策であろうと思う。ので、クライストチャーチ、民主党、海老蔵、ガタフィ、リビア、今村昌平!




 今村昌平は異彩を放つ。なぜイマヘイが出てきたか。




自分は映画監督では今村昌平を最も敬愛している。以前、今村昌平に関する私見を読みたくて、ブログで検索したことがあるくらい。ので、きっと同じように調べる嗜好の人もいるに違いないと思うから付け加えてみた。




 今村昌平の映画は圧倒的な凄みがある。俳優はもちろん、着眼点と題材の面白さ、人間を描ききった本、妥協をしない演出と何をとっても凄すぎる。何より、作品を仕上げるまでに要した労力を思うと、くらくらする。それを実現せしめた今村昌平とそのスタッフの情熱に胸が打たれてしまうのだ。






 あまりにも今村昌平の人間性に興味が出てしまい、自伝を読んだら晩年には数千万の借金が残ってしまったとのこと。カンヌを二回も取り、マーティン・スコセッシ、ポン・ジュノなど名監督に憧れを抱かせた監督なのに、日本の芸能界では財を成し得なかった悲しさ。日本社会の狭量さを感じてしまう。




 ただ、お金に矜持を捨てることなく、良作を作ることだけを考え続けた今村昌平。無邪気さ、奔放さに憧れる。




今の映画界だと、若松孝二あたりに同質の情熱を感じる。日本アカデミー賞で寺島しのぶだけを写し、隣の若松孝二を一切抜かなかったテレビ局、バカやロー。その存在に一切触れない司会者たち、薄っぺらい。




 本物が認められ、本物に幸ある社会になって欲しいなあ。




 



 作ってから何年目かの初投稿。


IDを忘れ、パスワードも忘れ、かろうじて当たっていた登録アドレスを頼りにログインに成功。



 今さらに投稿するきっかけは、ある知り合い、といってもお互いに顔を見知っているくらいだが、


その人のブログを読んだことだ。



 単純に文章が洗練されていたのか、文章を通じて見える彼の人間性、思考に打たれたのか、


素敵だなと思った。



 かつては、文筆を生業としたこともあり、文章を書くことの深淵さはよくわかる。


深い深い芸術だ。いつかは、文をもって作品を構築したいとはゆるやかに思っていたのだが、


不肖がたたって遅々として進まない。



 リハビリがてらに、書いてみるにはブログはちょうどいい機会だろうと思って、ここに打つ。



素敵な文章とは如何なものだろうか。


内容か、文飾か、構成か、それらのどれにも拠るだろうが、わけもわからず素敵だと思わせる文章を


書いてみたいもの。


 

夏目漱石のような軽やかさに憧れる。


まあとりとめもなく、規則性もなく、時々書いていきます。 


 

 無縁の中、始めるこのブログ。読者ができたりするのか、少しぐらい人が迷い込んだりしてくるものか、


それを見守る実験でもあります。