本当は重要な、脚本上の「……」
脚本上によく「……」という表現がありますよね。
太郎「……」
みたいな。
俳優の皆さん、ちょっとこの「……」を雑にあつかっていませんか?
よく「……」は無言だから、自分の番じゃないなと思って油断している俳優さんがいるんですけど(そもそも“自分の番”って何?)。
いやいやいや。「……」こそまさに自分の番なんです。
台詞をおぼえることに一生懸命な俳優さんは「……」をおぼえなくていいセリフだと、飛ばして進めちゃったりするんですが、いやいや、ダメです。
「……」は音としてはゼロですが、演技的には超重要な意味があるからです。
「……」の意味は(間)じゃない。
脚本のト書きの部分によく(間)と書かれていることありますよね。
単に台詞と台詞のあいだに間があくことを指示する場合は(間)という表現が使われたりします。
ではなぜ 太郎「……」 は、シーンの中にいる特定の人物である太郎を名指しで書いているのでしょうか? だって「……」の時間はそのシーンにいるすべての人物が黙っている時間なわけでしょ?なぜ太郎だけが名指しで???
それはこの 太郎「……」 という文言がじつは「無言である」という事を指示する文言ではないからです。
この文言の本当の意味は「このタイミングでカメラが太郎のアップを抜きます」です。もっと詳しく言うと、
「ここでこの人物の心がひそかに動くので、その心の動きをアップでしっかり撮影しますよ」ということ。
そう、つまり
「……」こそ俳優にとっての一番の見せ場なんです。
「……」はインプットの時間。
これが例えば舞台の脚本であれば 太郎「……」 はアップの指示ではなく、「このタイミングで観客の視線が太郎に一回集まりますよ」という意味になりますし、映像でツーショットとかの場合でも同じですね。「このタイミングで観客の視線が太郎に移動しますよ」ということをあらわした文言、それが 太郎「……」 になります。
なぜ観客の視線がある特定の人物に移動するのか。
それはその前の行で起きている出来事や誰かのセリフが起きたことによって、それを見ている/聞いている「その特定の人物(太郎)の反応」を観客が気にするような、そんな設計を脚本家がしているからです。
つまり太郎を演じるあなたの「……」のこの時間の芝居は、セリフを喋ったり行動するという「アウトプット」の時間ではなく、相手の台詞を聞いたり・行動を見たり・何かされたりして何かを感じる「インプット」の時間になるのです。
そしてその「インプット」に「反応する」時間です。
ボクが最近よく撮っている俳優さんのデモリールでも、一番面白い瞬間や、その俳優さんの魅力があふれる美しい瞬間はほぼその俳優さんが「実際に心動かされている瞬間」。つまり「アウトプット」の瞬間ではなく「インプット + 反応」の瞬間です。
俳優のその「心を動かされる芝居」を見て、観客はさらに心を動かされたり、共感したりするわけです。
「……」の瞬間に心奪われる。
みなさんは映画やドラマを見ていて、誰か役の人物や俳優さんのことを好きになる時ってありますよね。それはどんな時でしょうか?
もちろん個人差はあるんですがw・・・ボクの場合は、その役の人物が切なくなっていたり、喜んでいたり、悲しみを噛み締めていたり、その人物の「心が動いている瞬間の表情」にキュンときたりします。
それは意外と台詞や行動みたいな「アウトプット」の瞬間ではないんですよね。何かを感じる「インプット + 反応」の瞬間、つまり「……」の瞬間だったりするんですよね。
という風に、俳優の芝居が観客の心と深くつながる可能性のある瞬間、それが「……」なのです。それって俳優にとって一番重要な芝居ですよね。
余白の美しさ
先日読んだカン・ハンナさんの「コンテンツ・ボーダーレス」という本に以下のような文章がありました。
「日本のコンテンツには「余白の美しさ」があると思っています。
それは伝統文化から継承されている素敵なもので、その余白の美しさから伝わる品格、そして居心地のよさにいつも感動します。」
カン・ハンナさんは日本で短歌などをやっておられる韓国の方なのですが、まさにその短歌の余白に「読んでいる人に想像させる」美を感じるのだそうです。
ボクはこの本のこのくだりを読んで一番最初に脚本上の「……」のことを思い出したんですよね。 脚本上の「……」はまさにこの余白そのものではないかと。
そこには文字で表現できないような「人という存在の危うさ、そして美しさ」が充満されることが想定されている。
「……」は無じゃない。
ここを大切に演じることが、人物を、そして芝居全体を素晴らしく豊かに、そして美しくすることができます。
俳優の皆さん。ぜひ、「……」を大切に演じてみてください。
小林でび <でびノート☆彡>