本当は超エキサイティングな落語の演技(後編) | でびノート☆彡

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映画監督/演技講師 小林でび の「演技」に関するブログです。

落語を楽しむ醍醐味のひとつに「いろんな落語家の同じ演目を見比べて楽しむ」というのがあります。

ジャズの名演を聴き比べるのと同じで、それぞれの落語家さんの芸の質の違いが見えて面白いんですよねー。

おおげさに演じる人、ディテールを演じる人。キャラを作り込んで演じる人、作り込まずにあっさり演じる人・・・同じ演目の同じセリフでも、落語家さんのホンの解釈や演技法の違いによってまったく違った印象のパフォーマンスになります。それが楽しい。

で、たくさんの落語家さんを見てて思いました・・・古くさくて退屈な落語も多いけど、今もエキサイティングな落語もある。落語の「演技法」は大きく2タイプあるなーと。

 

落語の演技法A:【人物のキャラを工夫して演じるタイプ】

落語の演技法B:【人物と人物とのコミュニケーションを演じるタイプ】

 

(後編)はこの2種類の「落語の演技」について書いてみたいと思います。

 

 

落語の演技法A:【人物のキャラを工夫して演じるタイプ】

 

このタイプの落語家さんはキャラクターを面白おかしく演じることに集中します。

熊さん、八っつあん、ご隠居さん、与太郎、商家の大旦那、若旦那、番頭さん、女中などなど、それぞれのキャラを面白おかしくデフォルメして演じます。

 

このAタイプの落語の笑いの構造はたいてい【ボケ・ツッコミ】になります。 ボケキャラの非常識を、常識的なツッコミキャラが間違いを指摘して笑いを取る。 つねに非常識と常識との摩擦を演じることで物語が進行してゆくわけです。

笑いだけでなく、たとえば妖艶な女性に男性がドキドキするなどというシーンも、ある意味その女性の「赤の他人に対してセクシーに振る舞う」という非常識さを男性が常識の尺度でもってツッコミながら魅かれてゆくみたいな構造で演じられてゆきますね。

 

多くの落語家さんがこのAタイプなんじゃないかと思います。

職人は職人らしく、侍は侍らしく、与太郎は与太郎らしくキャラをデフォルメして演じて、非常識を常識がツッコんで物語が進行してゆきます・・・でも正直言っていいですか?

・・・ボクはこのAタイプの落語をいまいち面白いと思えないんです。若手が演じていても重鎮が演じていても。

だってあまりに予定調和ですよね。 いかにもボケそうなキャラの男が出てきて案の定ボケる。しかも滑稽に。それにツッコミが入る。この繰り返し・・・驚きが無い。ボクはこのAタイプが世間一般の人々に「落語は古くさくて退屈な伝統芸能」だという印象を与えているのはこの驚きの無さなんじゃないか?と思うんです。

 

それに対して、いつまでも古くならずにエキサイティングな落語があります。古今亭志ん生に桂歌丸に立川談志etc.etc.・・・それが次に紹介するB:【人物と人物とのコミュニケーションを演じるタイプ】の演技法です。

 

 

落語の演技法B:【人物と人物とのコミュニケーションを演じるタイプ】

 

こっちはひとりひとりの登場人物を面白おかしく演じるのではなく、人物と人物の間に生じるディスコミュニケーションをどうおもしろく演じるか、に集中するタイプです。

大家と店子、芸術家と宿屋の主人、商家の若旦那と遊女、クズ屋と浪人などなど、生まれも生活している環境も全く別々の人間同士が、まったく別の常識観でもって噛み合わないさまを笑いに変えてゆきます。

 

Aが「非常識と常識の摩擦」を演じていたのに対して、このBタイプは「こっちの常識とあっちの常識の摩擦」を演じるわけです。 

だいたい人間って自分が持ってる常識だけが唯一の常識だと思ってたりするのでw、別の世界の常識は非常識にしか見えないものです。

なのである意味「お互いにお互いを非常識だと思うどうしの摩擦」とも言えるでしょう。 リアル、そして切実です。

 

現実の世界にボケキャラの人間がいないように、このBのタイプにはボケキャラは存在しません。貧乏人の熊さんが金持ちの商人にツッコまれるのは貧乏人がボケたからではなく、貧乏人の常識観が金持ちにとっては非常識に見えるからです。そしてまさにその瞬間、貧乏人は逆に金持ちのことを非常識だな~と思っているのですw。まさに「バカの壁」(by養老孟司)ですね。

 

 

ディスコミュニケーション満載の落語といえば、古今亭志ん生(五代目)の『岸柳島』

この噺の渡し船の上でのこぜり合いなんかホント怖いですよ。浪人がクズ屋に腹を立てて斬ろうとするんですが、それが狭くて満員の渡し船の上ですから。浪人をとめようとする老いてヨボヨボの侍、そしてそれを見守る商人たちも自分らもとばっちりで斬られるんじゃないかとヒヤヒヤしてる。 で、それぞれがそれぞれの立場と常識観でまくしたてるので会話がまったく成立しない・・・で状況はどんどん悪くなる(笑)。

会話の中で深く掘り下げてゆく彼らひとりひとりの人物描写が、生々しい生活のディテールに溢れているんですよ。誰ひとりとしてボケてない。

クズ屋や商人にとっては浪人は非常識の塊なんですよ。怖い、狂人にしか見えない。ところが浪人にとってはクズ屋が卑しくて非常識の塊なんですよ。怖いので斬り捨てて自分のプライドを取り戻したい。 老いた侍は浪人の気持ちはわからないでもないだけど、浪人が自分のいう事を素直に聞かないで暴れるであろうということも経験から分かっている。もし刀を抜いての戦闘になったら老いた自分ではおそらくかなわない、なので怖いw。

ディスコミュニケーションによる一触即発の状態のまま物語が進行してゆくんです。超エキサイティング!

 

しかもこの大人数を1人で演じてるんですよ・・・いや志ん生ホントに凄すぎる。

 

 

柳家喬太郎さんはキャラの面白さを前面に押し出して演じるAタイプもこなす落語家さんなんですが、じつはBの【人物と人物とのコミュニケーションを演じるタイプ】のやり取りをしている時が最高にエキサイティングです。

たとえば新作落語『ハンバーグができるまで』の主人公マモルと肉屋の会話なんか、お互いにわかりあおうとしているのにかみ合わないかみ合わない(笑)。 違う常識観の世界で生きているので2人の間に「バカの壁」が発生しているんですね。 だからお互い思いやりを持って接しているのに相手の真意がお互いに理解できないもんだからトンチンカンなことになってゆく・・・この演技、迫真ですw。

 

 

そしてこのBのタイプの落語はお客を怖がらせたり笑わせたりするだけでなく、泣かせたり切なくさせたりもします。

先日銀座で見た入船亭扇辰さんの『お初徳兵衛』はホントに素晴らしかった。後半、身分ちがいの恋に揺れる船頭と遊女、舟に二人きりになるんですが、お互いの常識観の違いから会話が見事に噛み合わないまま進行します。これが切ない!ドキドキします。

そんな2人が雷の音に驚いて、ついにその「壁」を飛び越えて抱き合ってしまう・・・いや~心打たれました。

 

 

このBの【人物と人物とのコミュニケーションを演じるタイプ】の落語家さんでもう一人どうしても挙げておきたいのは桂歌丸さんです。

生活環境や立場の違う人間同士がどうディスコミュニケーションして、それをどうやって乗り越えていくのかをディテールたっぷりに演じることに欠けては天下一品でした。

 

『竹の水仙』が大好きです。この話は天才彫刻家と、宿屋の主人と、侍と、殿様が徹底的なディスコミュニケーションを繰り広げます。会話が見事にひとつも噛み合わないのです。で、そしてお互いにお互いのことを「バカだなあ」と思っているw。

でもそれが人間社会の真実の姿ですよね。この現代もそんな感じですもの。ツイッターを見てくださいよ、そんな噛み合わない会話しかないじゃないですか。そしてお互いがお互いを罵ったり見下している。

上司が部下をバカだと思い、部下は上司をバカだと思ってる。「バカの壁」を挟んでお互いをバカだと思ってるこの人間世界の深刻なリアルを、歌丸師匠は楽しい話として爽やかに優しく演じてくれます。

 

そして歌丸師匠の演技の特筆すべきところは、その目の演技だと思います。

ポッカリと見開いた、相手の言ってることがまったく理解できてない人間の目w・・・この目で会話が進行してゆくのです。

・・・あ~これってリアルな日常生活の中でよく見る目だ! 職場で部下が上司が、商談の場で売り手と買い手が、飲食店で店員がお客が、恋人同士が、夫婦が・・・みんな相手の言ってることが半分くらいしか理解できないまま、なんとか強引にがんばって仕事してるじゃないですか。生活してるじゃないですか。あの時の目ですよ、ディスコミュニケーションを飲みこむときの目

これを肯定的に演じてる歌丸師匠ってホント素敵な人だと思うんです。

 

 

そしてもう一点。天才彫刻家の左甚五郎を歌丸師匠が演じると、そのやり取りの中で、なぜ天才的な芸術家が普通の人々と生活をともにせずに旅人になるしかないのかが腑に落ちるんですよね。素晴らしい芸術家が日常の生活の中においてどんなにダメな人間か、その複雑な人物像がちゃんと演じられている。

 

ところがこの『竹の水仙』や『ねずみ』に登場する左甚五郎をAの【キャラを演じるタイプの落語】の落語家さんが演じると、人物造形が妙に単純になっちゃうんですよね。

達人を表現しようとして人格者みたいに枯れた感じで演じてしまったり、破天荒を表現しようとして感受性に乏しい人のように演じてしまったり・・・いやいや芸術家の心ってそんな平坦なものじゃないって。生活の中の色々なものに心動かされ続けているから創造し続けられるんだって!違う違う!と思っちゃうんです。

歌丸師匠の演じる左甚五郎は複雑な芸術家のリアリティがあって素敵です。

それは左甚五郎がさまざまな人間や作品や出来事に心動かされるそのディテールを豊かに、そしてリアリティたっぷりに演じているからだと思います。

 

大事なのはキャラじゃないんですよ。コミュニケーションなんです。

このBの【人物と人物とのコミュニケーションを演じるタイプ】の落語はそれが古典であっても、現代社会に生きる人間社会とまったく同じ生々しい姿で演じられています。だから古今亭志ん生や桂歌丸の落語は没後も古くさくならず、いつまでもエキサイティングなのでしょう。

 

 

以上「本当は超エキサイティングな落語の演技(後編)」でした。

本当によい落語は古くもないし退屈でもない!という気持ちが伝わったら幸いです。

 

あれ?でもちょっと待てよ?

このBの【人物と人物とのコミュニケーションを演じるタイプ】の超重要人物、立川談志について、今回ほとんど触れてないじゃないか!・・・いや~談志師匠に関しては書きたいことがあり過ぎて・・・じつは次回、談志師匠に関することだけを思いっきり書こうと思っています。

 

というわけで次回「落語とは人間の業の肯定である…とは?」でお会いしましょうw。 では・・・てけれっつのぱ!

 

 

小林でび <でびノート☆彡>

 

 

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