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HAFU@立命館大学

昨日は立命館大学でHAFUの上映会と、上映後のトークセッションがあり、
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ありがたいことにお声をかけて頂き、みなさんといろんなことをシェアさせて頂きました!


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共演者のエドもかけつけていて

相変わらずの学術的アプローチに

完全に客になっていた私

情熱派の自分と対照的で

理論を淡々と的確に話して行くエド

とてもいいバランスだなあと

そしてやりやすい

想いを好きなだけ

本当に言いたいことが言える

彼は学術という概念で包む良きセッションパートナーである
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英語と日本語で進んだ昨日の会は

多種にわたるアプローチがあり

とても興味深い質疑応答の時間となった


でも外の世界では


なんていうんだろうかあ… 


ハーフだからいいじゃん!

というのがやはり多いのでしょうか?


数パーセントのハーフは確かに華やかな世界に行くのかもしれない

モデルってハーフばっかりだよね…

とよく言われるけれども

僕からすると

すべてのハーフのなかの
いたってわずかであり
そして

だから幼少期の時に何があっても

苦しんだってモデルになれたからいいというのも浅はかな答えだと思う


そして

僕のハーフまたはミックスの友達は皆

ハーフなのにかっこ悪いねとか
足早そうだとか

そのハーフの固定概念に悩んでいる

人が非常に多い





だけど


今日はその更にもっと前の幼少期の事を少し話したい

もちろんその時からすでに始まっていることではあるけれど笑

子どもの時のアイデンティティの構成期に

日本で生まれ育った子どもも

幼少期に日本にきた子どもも

「外人!」

という言葉にかなり戸惑います

特に日本で生まれ育った子どもたちは

なぜそう呼ばれているのか

理解に苦しみ

その繰り返しにより

自分が持つ日本意外のルーツを恨んだり

蓋をするようになったり

捨てようと行動することなど

いろんなことが起きる


子どもの世界は確かに残酷

出来ることに限りがあると言われれば

そうなのかもしれない

ただ

果たしてベストは尽くされているのか

昨日のような会で

必ず遥々遠くからいらした

ハーフやミックスの子どもを育てる親が

わざわざ最後の最後まで会場に残り

お子さんの事で相談されます



これは確かに世界中で起きてる事ではあります

だけど

世界中で起きてるから

その理不尽にたった1度の人生を甘んじろというのだろうか?

突き詰めれば

ハーフにとどまらず

なぜかいじめられる人

障害者がゆえに

同性愛がゆえに

しょうがないと片付けてしまえる感覚

本当にそれでいいのだろうか?

自分の子が理不尽にいじめる側でいて

よくやった、と褒められるのだろうか?

褒めるのだろうか?

それが親としての務めだろうか?

学校の先生としての務めだろうか?

本当に精一杯やったのだろうか?

試したのだろうか?



いじめも政治も戦争も人間関係も

いつの間にかしょうがないと

簡単に片付けてしまうようになってる気がする

簡単なことだと思っていない

僕は夢見る20歳ではないし


だけど

時間をかけて

しっかり話し合うべきことがあると思う

仕事やバイトより大切なことは

ものすごく近くにあると思う

人として

互いにどう関わりあうべきか

話し合っていくべきだと思う

答えをすぐに見つけられたらもちろんいいけれど

そうじゃなくて

1ミリずつ歩み寄って行くために

昨日より分かり合えるために

僕らがそれを信じないと

諦めたらダメ!

信じて行動する!

まずは身近な事から

まずは身近な人と

まずは自分自身と

失敗はない

最後の最後まで

だから試してみようよ


昨日話してみて、27年前と、学校で起きてる事が何も変わってない事に驚いた

変わってるよ

ちゃんと考えてる先生といるよ

という人もいますが

そういうのも昔からじつはあったのです

全体的な割合が変わってないのです


でもそれが
みんなを生きづらくしている

根本に繋がる

そこにある何かが

僕らを生きづらくしている

僕ら日本人全員を生きづらくしてる

何かがそこにある

感じてほしい

we can do it !!  だよ!