その日もセンサーとコールボタンが重なるようにして鳴る忙しい夜でした。

夜中3時30分。この時間からはショートステイに移動して勤務します。

一晩を通して休める時間はほとんどありませんが、この時間から朝に向かってはさらに忙しくなります。

フロアーで迷子になられていたアルツハイマーを患う佐々木さんをお部屋にお送りしていると、コールがなりました。

今、私を呼んでいるのは、筋萎縮性側索硬化症ALS)を患っている田中健夫さん(仮名)74歳男性です。田中さんはうちのショートステイをよく利用されているお得意様です。

筋萎縮硬化症とは手足、のど、舌、その他、呼吸に必要な筋肉の力がどんどんなくなっていく病気で、難病指定されています。

進行性のため一度かかると症状が軽くなることはありません。

経過は一人一人大きく異なり、その人にあった対応が必要とされますが、この病気を患った人の大多数は、やがて呼吸の筋肉が働かなくなり、肺炎を併発し、呼吸不全で亡くなると報告されています。私たち人間にとって、とても厳しい経過を辿る病気の一つだと思います。

最近の田中さんは、言葉が不鮮明になってきており、手足を動かすこともほぼできなくなっていました。

また私たちは普段咳払いをして簡単に去痰しますが、田中さんはそれが出来ません。

そのため溜まった痰は体位を調整して排痰します。

どういうことかというと、常にベッド の頭部を持ち上げ重力によって痰を移動させるのです。

それでもなかなか苦しさが取れなくなってきていたこの頃は、ベッド の頭部は常に45度(直角)近くまで上げられていました。

そんな苦しい状況でもコールがありお部屋に行くと「まりあちゃん。デートはどこに行こうか?御馳走するよ。何が食べたい?」と明るい会話から始まります。

身体の体勢を、呼吸が楽になるように整えながら「そうですねー。じゃあ、久しく行っていないディズニーランドはどうですか?」と答えると「ベタだなぁ。ディズニーランドでいいの?いいよ。じゃあ行こう。僕ね、ベンツでむかえにいくよ」と会話が弾みます。

「ベンツで来てくれるんですか?じゃあ、お洒落して待ってますよ」と答えると「スカートね。ズボンはだめだよ」とすかさず続くので「うわっ、セクハラっぽくないですか?」と笑って答えると「そう?」と笑顔が返ってきます。

そして最後は「その時は手を繋いで歩こうね。今日もありがとね。」と声をかけてくれるのです。

この日もそんな会話を想像しながら田中さんの部屋に向かいました。

その夜、私が引き継いで初めての田中さんからのコールでした。

「田中さん、大丈夫ですか?」と声をかけると「あ、まりあちゃん。悪いね。ハァハァ…嬉しいなぁ。ハァハァ…今、まりあちゃんとディズニーランドに行く夢を見てたんだよ。ハァハァハァハァ…」

いつもより呼吸が荒いと思いました。検温をすると熱がグンと上がっていました。

酸素濃度は86パーセントに落ちています。

すぐにオンコールで看護士に相談し救急搬送となりました。

「田中さん、今救急車が来るから待っていてくださいね」と声をかけると「まりあちゃん、ハァハァ…大袈裟だなぁ。行かなきゃダメ?ハァハァ…」と無理に笑う顔がひどく苦しそうで、胸がドクンと鳴りました。

救急隊が到着し手際良くタンカーに移す様子を、何か夢でもみているような、現実ではない出来事を目で追っているようなそんな気持ちで見ていました。

病院へ付き添うフロアーのスタッフがわたしに「じゃあ行ってきます。あとをよろしく。」と声をかけ救急隊と共に玄関に向かいます。

私は何かに急かされるように田中さんの脇につき手をとりました。

ふっくらとした大きな手でした。「田中さん、お帰りになるのを私待ってますよ。また来てくださいね」そう声をかけました。

玄関に横付けされた救急車両は、なぜかなかなか動かず停車したままでした。

暗い闇に回るあの赤い光は、緊迫した状況の代弁者のようで、見ているだけで気持ちが急かされます。『どうしたんだろう』と思いながら動かない車を見ていると、唐突にサイレンを鳴らし、あっという間に施設から遠のいていきました。

静けさを取り戻した夜の空の下、見上げると満点の星が煌めいていました。今夜の私たちとは無縁に、美しい静かな星空でした。

田中さんとまた会えるのはしばらくかかるのかな…そんなことを思いながら仕事に戻ったのを覚えています。

そして数日後のことでした。

夜勤に入ると伝達帳に『田中健夫様、本日18時30分永眠されました』とありました。

えっ?

そう思うのと同時に視界が滲むようにぼやけ、次から次へと涙がこぼれ落ちていきました。

交わした会話。身体の向きを変えた時の笑顔。うまく行かない時の困った顔。あの日の手の温度。

関わった何回もの時間が、私の涙と一緒に蘇っていくようでした。

あれからもう一年になります。

時々、綺麗な星空を見ると田中さんを見送ったあの夜を思い出し、胸がさわさわっと揺れます。

会えるようで会えない初恋を懐かしむ、どこかそんな感覚にも似ています。

こんな夜は夢であなたに会いたい。

ふっくらとしたあの大きな手が、とても懐かしい私です。