急に思い立ってデカルトの勉強しました。


「我思う、故に我あり」って言った人ですね。


ラテン語で


Cogito, ergo sum


って言うそうです。


Cogitoだけで「我思う」で「ergo」が「故に」で「sum」が「我あり」みたい。


「方法序説」って本で、「一回全て無しにして考えてみよう」って言ったそうです。


「全て無し」って言うのは、何も存在しない、全ての存在を疑ってかかるってことだそうで、なんだかんだ色々考えた挙句、


「いや待てよ、なんだかんだ言っても私って今考えてるよね。」


「せや、今考えてる自分だけは絶対に否定できない事実や!」


って思ったそう。


それが


「我思う、故に我あり」


ってことだそうです。


で、私(精神)の存在は確かだとして、物体(延長)はどうなんだってことを考えたみたい。


・私は確かに物体を認識している。

・感覚は疑わしいので否定するが、知性が確かに物体を「洞察」している。

・物体は確かに私とは別々に存在している。


これが心身の「二元論」ってやつです。


これで「心と体は別」ってことになって、西洋医学で体を切って解剖することが許された理由づけになります。


で、ここからちょっと怪しくなるんですが、


「物体が存在してるのは何故?」


って考えて、それが「神のおかげだ」って考えに至ります。


もっと言うと、時間の連続性、私や物体が時間を超えて存在できるのも「神のおかげ」ってことになります。


空間が分割されているのと同じように、時間も分割されていて、一瞬前の時間に存在したものは、次の瞬間には存在し得ない。消えているのが当たり前なのに、それが時間を超えて存在していけるのは、「神が連続して創造しているおかげ」「連続創造説」)。


ここまでくると、


お前、最初に全部疑うって言ってたじゃないかよっ、なんでそうなるんだよ!


って突っ込みを入れたくなりましたが、実際に、後に色々とツッコミを入れられます。



「心と体が別々なのに、心が体を動かせるのは何故ですか?」


って聞かれて、


「それは脳の中に松果腺があって、そこから神経を伝って指令が出されるからです。」


って答えて、


「お前、それじゃ心と体が繋がってるじゃねーかよっ!」


ってツッコミを入れられて、「グヌヌっ」てなります。



ちなみに仏教的には「私は存在しない」ので、


「お前、一番最初から間違ってるじゃねーかよっ!」


ってことになります。


ま、でもデカルトさんを擁護すると、当時はキリスト教が世界を思想的に支配してた時代なので、全ての原因を神に帰するのも無理からぬ時代でした。


デカルトさんは一回読んだ本を、後からそらんじることができたほどめちゃめちゃ頭がよかったそうで、そんな人でも「神」を信じ込んじゃってたので、時代の影響の大きさは想像を超えるものなのかもしれません。


それに、全てを「神」から始めたんじゃなくて、思想的に「私」から始めたのも、哲学史的には大きな転換点だったそうです。