YouTubeのチャンネル桜で西部邁氏に哀悼の意を捧げる番組を見ました。
西部氏は実存主義を信奉されていたそうです。
で、実存主義の結果として、自殺に至った、と。。
ここからは自分なりの解釈ですが、
実存主義って、ハイデガー、サルトルらが主張したそうです。
物質は本質存在が先にあるが、人間だけが事実存在の方が先にあるとする存在論だそうです。
いきなり意味のわからない言葉が出てきましたが、本質存在とは、例えば、「消しゴムは消すものである。」とか、「鉛筆は書くものである。」とか、「〜である」という、物の性質を表す言葉だそうです。
もう一つの事実存在は、例えば、「消しゴムがある。」とか、「鉛筆がある。」とか、「〜がある」という、物の存在そのものを表す言葉だそうです。
それで、サルトルは、人間だけは事実存在が先にある。つまり人間は偶然に産み落とされたもので、その後で本質存在が現れるということを唱えたそうです。
事実存在→本質存在
(肉体として産み落とされる)→(自我に目覚め、自分の本質を考える)
サルトルによれば、だから人間は自由であり、「自由の刑に処せられている。」のだそうです。
つまり、自分の道は自分で決めるべきである。ということだそうで、それを投企という言葉で表現したそうです。
それで西部邁氏ですが、彼は奥さんを亡くされて、喉頭癌にもかかっていたそうです。
普通に病院に入って、苦しみながら死ぬのは嫌だと、おそらくそう考えられたのだと思います。
それで、まだ元気な内に自殺を投企したと。。
だから、日本に安楽死や尊厳死の制度があれば、おそらく西部邁氏は自殺しなかったんじゃないでしょうか?
病院で苦しみながら死んでいくしかない今の制度って、個人的にはおかしいと思います。医者や医師会は儲かるでしょうが。
少なくとも、もう救いようのない病気の時に本人が死を選べるような制度が必要なんじゃないでしょうか?
そんなことを考えた、今日この頃でした。
