ピーター・F・ドラッカーが唱えた「目標による管理」が、企業経営に重要だともてはやされているそうです。
ピーター・F・ドラッカー自身、ナチス・ドイツを離れてイギリスに渡り、アメリカに移民した人だそうで、全体主義に打ち勝つためにカントの解決策に基づいて「人間主義的な目標管理」を説いたそうです。
しかし、その解釈には2種類あるそうで、
1、経済合理主義的な目標管理
分かりやすく言えば数値目標です。
利益目標を立てて、その目標に向かって突き進むのがこのタイプの企業です。
2、人間主義的な目標管理
人間の自律性、自主性を目標にする管理です。
社員がどういうアイデアを持つかを重視し、社員のアイデアを実現することを目標とするタイプの企業です。
以上の2種類の目標管理ですが、普通の企業はほとんど1の「経済合理主義的な目標管理」を採用しています。
自分も、企業が利益を求めないでどうするのだ、と思いましたし、有識者の中にはこういうことを平気で言う人がいます。
ところが、ピーター・F・ドラッカーは、2の「人間主義的な目標管理」を説いたのであって、1の「経済合理主義的な目標管理」は説いていないそうです。
■マックス・ウェーバーの予言
ドイツの経済学者マックス・ウェーバーは、近代資本主義が成立したのは、キリスト教のプロテスタンティズムによるものであると分析したそうです。
プロテスタンティズムは、質素、倹約、勤勉を重視するもので、そう言う人は神の恩寵を得られる人であるので結果として繁栄する(金持ちになる)、と教えるそうです。
ところがマックス・ウェーバーは、人は質素、倹約、勤勉を目的とするのではなく、とにかく金持ちになることを目的(経済合理主義)にするようになる、と予言したそうです。
予言通りに、目的と結果が倒錯して受け止められ、実際それに突き進みます。
その結果、どうなったか?
■全体主義
人間は与えられた数値目標を達成する為に、感情を持たない機械に貶められ、至上命題である数値目標を達成するため、組織は個人(=部品)を管理するために個人の私生活にまで介入するようになります。
このようにして全体主義が完成されましたが、それを実現したのはナチス・ドイツでした。
ドイツの哲学者カントは、このように貶められた人間は、他人に言われたから動く「他律的」なもので、動物や機械と変わらない。そこに「人間の尊厳は存在しない」と言いました。
■再び経済合理主義的な目標管理
歴史に学ぶならば、経済合理主義的な数値目標を至上命題として突き進む企業は人間を貶め、部品化し、数値と言うノルマ達成のために手段を選ばなくなるようになります。
こうしてブラック企業や粉飾決算、燃費不正などを行う企業が生まれます。
つまり、経済合理主義的な目標を立てると、倫理観の欠如した企業になるということです。
こうなると、その会社がやってることは、会社による、会社のための全体主義であって、世の中にとって迷惑な存在でしかなくなります。
ドイツの経済学者カール・マルクスも、資本主義の行き着く先として、人間が貶められ、機械化され、搾取の対象になると予言しました。
派遣社員など、初めから企業が育てるつもりもなく、賃金を上げる気もなく、長年勤めた後は退職金を支払う気もない、単に労働力を搾取することしか考えていない非正規雇用を採用、または派遣する企業も、広い意味で倫理観の欠如した企業と言えます。
■カントとピーター・F・ドラッカーによる解決策
歴史的に見ると「経済合理主義的な目標管理」は誤りだと言うことが証明されています。
マルクスはこういった状態の解決策として「革命」を上げましたが、これはソ連などで実行されましたが、歴史的に失敗したことが分かっています。
カントは、人は「他律的」ではなく、「自律的」であるべきと説いたそうです。
ただし、「自律的」と言うのは自分自身で「自由」に発想し、「自主的」に活動するわけで、それには「責任」が伴います。つまり個人が責任というコストを支払う義務が生じます。
個人にアイデアを出してもらい、自主的に、かつ自律的に実現するために動いてもらい、その責任も負ってもらうことで、コスト低減と自律的な社風も生まれることになります。
これが「人間主義的な目標管理」で、かつてのソニーや、稲盛和夫氏の京セラなどはこういった社風の会社として有名です。現在ではGoogleもこういった社風の会社に入ると思われます。
■人間主義的な目標管理
現在の日本は「経済合理主義的な目標管理」がはびこっていますが、これが誤りだったということに賢い経営者は気づきつつあります。
そして、カントやドラッカーによってすでに解決策も提示されていて、現在の世の中を見回すとそれが正しいということも証明されています。
今後の日本企業の経営者の賢さが試される時代がやってきましたが、さてどうなることでしょうか。
