来れる。
食べれる。
等の、「ら抜き言葉」がとうとう多数派になったそうです。
言葉にうるさい人は、これをもって「最近の若い者は・・・。」とか、したり顔で言ったものです。
しかし、私はこの「ら抜き言葉」は、実は至極真っ当で正しいものだと断言します。
そもそも、古典の物語も言葉がかなり違いますが、あれは、当時はそのように発音していたからで、それを文字に起こしたものが現在の古語として残っているだけです。
もっとも簡単な例では、「てふてふ」というのが有名です。
現代の私たちから見れば、なんで「蝶々」と書かないんだろう?とか疑問に思うわけですが、あれは、当時の人たちは蝶々のことを「てふてふ」と言っていたからで、それが文字として残っているだけだったりします。
ら抜き言葉を、「嘆かわしい、、」とか言う人は、じゃぁ、現代の言葉使いの殆どを「嘆かわしい、、」とか言わなければなりません。いや、古語で「かかることをおぼしなげかむかな。」とかでしょうか?古文はよく知らないので分かりませんが。。
「ら抜き言葉」は日本語に数百年ぶりに起こった正統進化であります。
「ら」が抜けることで、「尊敬語」と区別することができるようになりました。
従来は、「ら」があることで、「尊敬語」なのか、「可能」を表す言葉なのかが不明でした。「ら」が抜けることで、「可能」を表すことが、これで明確になりました。
そして、「ら」が1文字抜けることで、言葉の効率化になります。時間の短縮化です。
1文字くらいなんだ、と思われるかもしれませんが、携帯とかで1文字入力が省けると思えば、その利点がなんとなく分かる人もいるかもしれません。
と言うことで「ら抜き言葉」は誤りなどではなく、日本語の進化であり、どんどん普及が進みます。もう元には戻れないです。
50〜100年後には、昔は「可能」を表すのに「ら」が付いてたんだよ、分かりにくいよね。とか学生さんたちが言う時代が来るのかもしれません。
