宗教哲学入門という難しそうな本を読んでみました。

内容はずばり、神が存在するのか、しないのかを、科学的見地ではなくて、論理的に説明してみるという内容です。

論理実証主義
あるテーマについて論じる際に、そのテーマそのものに意味があるのかを考える立場だそうです。

例えば、

神はいるのか、いないのか?

を論じようとする時に、神がいることが検証できるならば、それについて論じることには意味があり、そもそも検証できない事については議論すること自体が無意味である、とするそうです。

つまり、上の「神はいるのか、いないのか?」は、神がいることを科学的に検証することはできないので、そのテーマ自体に議論する価値がない、となります。


ところが、彼らによる、検証原理というものは、

論理的なものか、または、経験的に検証可能であるときに限り、意味を持つ。

としているそうで、これを使うと、例えば

このペンは赤い、または、神は存在する。

というテーマを考えることは、ペンが赤いのを検証することは可能なので、論理実証主義的には意味があるテーマになってしまうそうです。

「ペンは赤い」と「神は存在する」を「または」でつなげてしまうとはずるい。

「または」を使うのを禁止して、それぞれを個別に検証すれば良いじゃないか、と思えるのですが、検証原理自体が「または」という単語を使ってしまっているので、「または」を否定できない。

さらに、「経験的に検証可能」というのも、熱心なキリスト教信者の中には、「神が見える」という人もごくまれにいらっしゃるわけで、そういう人にとっては「経験的に検証可能」になってしまうわけです。

そして一番の問題は、

「検証原理を検証原理にあてはめて考えると、検証原理自体が無意味なものになる」

ということだそうで、確かに

「論理的なものか、または、経験的に検証可能であるときに限り、意味を持つ」

って、どうやって検証すれば良いのか、見当も付きません。(検証不可能=テーマ自体が無意味)

論理実証主義をざっとまとめますと、

「科学的に検証可能なものについて論じるのは意味があるが、それ以外は論じること自体に意味がない。」

となりますが、しかし、論理実証主義自体を論理実証主義に当てはめて考えると、その論理は自己破綻する。となります。


以上、この本の本当に頭の部分だけ紹介しました。

この本自体はとても面白くて興味深く読めるのですが、やっぱりニーチェ(神様なんか絶対にいない!)的な考えを持ってる自分としては、この後の偉い人たちの論理が、どうにか屁理屈をこねくり回して神様を証明しようとしてるようにしか見えなくて、途中で何度か読むのがばかばかしく感じられてきました。

でも最後まで読めたのは、筆者の興味を引きつける論理の展開が面白かったからです。

長くなるのでもう書きませんが、興味のわいた方は読んでみてはいかがでしょうか?