ジベリッシュを初めてする人は、正しくやってるのか考えてしまうらしい。デタラメ言葉、むちゃくちゃ言葉なんだから、正しいも、間違ってるもない。なにしゃべても自由。デタラメなんだから。
ジベリッシュというより異言(デババニ)を語り始める時の描写がある。星の巡礼の作者による「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」
(パウロ・コユーリョ) 自由に語ることの快感をうまく描いている。こういうのを異言と言ったり、ライト・ランゲージと呼ぶのだろうが、チャクラジベリッシュ瞑想でも上の方のチャクラの時は、自然にこう言ったことが起こっている時もある。そして、瞑想だから、そこからの同一化からも自由になれる。
以下
「やってみなさい」と私は自分に言った、
「口を開いて、自分には理解できないことをさえあればいいのよ。さあ、やってみなさい!」
今晩こそ神様が現れて下さいますようにと、私は祈った。
それは、いつ始まったのか、もう忘れてしまったほど長かった一日のあとに続くようだった。私にとっての新しい始まりだった。
神様は私の祈りを聞き届けてくださったに違いない。言葉が次第に容易に出てくるようになった。
そして少しずつ、言葉は日常的な意味を失っていった。
不安は消え、自信を持ち始めた。そして言葉が自由に流れ始めた。
自分が何を言ってるのか全く分からなかったが、私の魂にはどの言葉も大切な意味を持っていた。
意味のないことを口に出す勇気を持つということが、私を陶酔させた。私は自由だった。
自分がしていることを説明する必要も、説明を探し求める必要もなかった。この自由は私を天に持ち上げていった。
そこではより大きな愛、あらゆるものを許し、見捨てられたと感じさせることは決してない愛が、再び私を包み込んだ。まるで私の信仰が戻ってきたみたい、と私は思った。愛が行う奇跡に、私は驚いていた。そして聖母マリアが私をひざに抱き、彼女のマントで私をくるんで、 温めてくださるのを感じた。
奇妙な言葉の私の口からさらに早く流れ始めた。自分で気づかないうちに、私は泣き始めていた。喜びが私の心を満たした。それは私の恐れを打ち負かすほどの喜びであり、また、自分の人生を完全にコントロールしようとする私の試みよりも、それは強力だった。
「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」P153
10月27日(木)チャクラジベリッシュとハート瞑想 夙川
10月29日(土) OSHO瞑想インティンシィブ 芦屋
29日は、問題解決のためのジベリッシュ瞑想を使ったエクササイズと神の声(デババニ)に繋がる瞑想も予定しています。
