デアデビルになってジベリッシュ | チャクラジベリッシュとハート瞑想

チャクラジベリッシュとハート瞑想

毎週木曜日の夜に兵庫県西宮市の防音室で、チャクラジベリッシュ瞑想とハート瞑想をしています。

OSHOは第3チャクラ(第3身体)についてこう言います。

 

●マニピュラ・チャクラ
三つめは、アストラル体だ
これにも二つの側面があるが
基本的に第三身体は疑いと思考を中心に置いている
もし、それが変容したら疑いは信頼となり
思考はヴィヴェーク(覚醒)となる
疑いは追いやって
言われたことを信じなさいという忠告を受けても
もし疑いを隠したら
絶対にシュラッダー(信頼)は生まれない
第三身体と繋がりのあるチャクラは、マニピュラだ
マニピュラには疑いと信頼の二つの顔がある
疑いが変容されると信頼が生じる
だが、信頼は疑いに対立するものでも

矛盾するものでもないことを、肝に銘じておきなさい
信頼は、疑いがいきつくところまで進み
染みひとつなく純粋になったものだ OSHO

 

 

 

 

自信を持って疑えば、その疑う個というのは独立した存在だろう。OSHOは若い時は、すべてを疑ったと聞きました。OSHOは「疑うには大きな勇気が必要だ」と言います。伝統とか、聖典とか、救世主とか、全ての信仰は一度、疑ってみるところから個が生まれてきます。

 

『どんな小さなことでも、疑いまた疑いの連続でしかなかった。・・・・疑問は解答を得られないままだった。ある意味で、わたしは狂人同然だったと言っていい。自分でもいまにも発狂するのではないかとおそれていた。夜は眠れなった。

 夜も昼も・・・・・・わたしは疑問に取り巻かれていた。いうなれば、船もつかまる岸辺もなく、深い海の真っただ中に取り残されていたのだ。そこへ船が通 りかかったとしても、自分でそれを沈めるか拒絶してしまっていた。船も航海者も数多くいた。が、わたしの方で・・・・・・ほかのだれの船にも足をかけよう としなかったのだ。

 もしこのこと、つまり自分で自分を溺れさせることが、わたしの生の導いてゆくところだとしたら、それも甘んじて受けいれるしかないだろうと感じていた。

 わたしの状況はまったくの闇としか言いようがなかった。それはあたかも、暗い深井戸に落ち込んだかのようだった。その当時、わたしは何度も、底なしの井 戸のなかへどこまでもどこまでも落ちていく夢を見たものだ。そして何度となく・・・・・・汗びっしょりになって夢からさめる。その落下には終わりがなく、 地面も足をのせる場所もないのだから・・・・

わたしにとっては、はっきりとした道などなかった。なにからなにまで真っ暗だったのだ。踏み出す一歩一歩が闇に閉ざされていた。目的もなく不確かだった。
 わたしの状況は緊張と不安と危険でいっぱいだった。』
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社から引用)

 

こういった状態にまでなった直後にOSHOは光明を得ます(得たなんて言い方変ですが)

この時のOSHOが、もしジベリッシュしたら凄いだろうなあと思います。

 

僕の中にもある疑いにつながって第三チャクラのジベリッシュしたら、なんだか強烈でした。

 

でも終わったら、みぞおちに力も生まれた。

 

怒りとか嫌悪感とかも混ざってるようなエネルギーでした。信が押し付けられることへの拒絶感。疑うことなく大勢に流されていくことへの抵抗もある。

 

ス トレスはあるけれど、人間になったよう感じがしました。独りの、天国も地獄も選ぶ自由を持っている人間。自分の選択が正しいのか間違ってるのかは誰も教え てくれない。自由なんだけど孤独です。ニューヨーカーみたい。つながりとか自然回帰とかを求めずに、でもまだハートの満足もない状態です。強さと自由はあ るけれど孤独と疎外感もある。デアデビル(Daredevil)向こう見ずな奴です。格好いいけど第三チャクラだけで生きるのは大変です。マスク被るのも 第三チャクラです。