私が光を生きる。
誰がどうであろうが構わない。
そんなことを理由に自らの光を生きないのは愚かなこと。
誰がどうであろうが構わない。
私が光を生きる。
バカにバカと言うのがバカだ。
バカであろうがキチガイであろうが、それはその人のこと。
それがたとえ親でも構わない。
誰がどうであろうがそんなこととは関係なく、私が光を生きる。
対象への同一化から離れて、気づきの主体へ戻る。
そして、対象はそのまま放っておき、ビーイングに寛ぐ。
そして、魂を活性化し、そこからすべてをあるがままに受け入れていく。
その時、新たな次元が開かれる。
おそらく、両親以上に同一化しやすいものはないかもしれない。
なぜなら、体の半分は父親によってもたらされ、もう半分は母親によってもたらされるから。
そして両親もまた、子供は自分達によってもたらされたから、自分達の物だと思い込みやすいのかもしれない。
そしてまた子供は、一人では何もできない無力なものとして生まれる。
両親はそんな無力な子供を育てる。
だから、なおさら子供は自分の物であり、子供よりも自分の方が子供のことを知っていると思うのかもしれない。
そして、子供もその依存から、両親に同一化しやすいのかもしれない。
しかし、体は両親によってもたらされ、両親によって育てられるが、その魂は体が生まれる以前から在り、体が死んだ後も在る。
そして魂は、 両親によってもたされた訳ではない。
体は、魂がこの世界に生きるための器であり、その器が両親によってもたらされ、両親によって育てられた。
しかし、魂は、両親によってもたされた訳ではない。
そこにいかにして戻るかがカギだ。
