探究の目的は、何かになるためではなく、ただ本来の自己が目覚めることです。
自我が本来の自己になろうとすると、目的地を作り出します。
すると、そこに時間と距離を作り出します。
結果、修行と言うプロセスを作り出してしまいます。
しかし、本来の自己とは、どこか遠いところに在るのではありません。
それは、他の誰よりもどこかよりも、最も近い所に在ります。
どこかに辿り着こうとすることで、それから離れてしまいます。
目覚めようとすることで、離れてしまいます。
辿り着こうとすることを辞め、目覚めようとすることを辞めるとき、それが目覚めます。
あなたが、あなたという自我を手放し、することを辞める時、それが体を通して生きるのです。
努力して修行して本来の自己に目覚めようとするのではなく、あなたという自我を手放し、それが現れるに任せるのです。
することを辞め、手放し、ただ感じるのです。
その時、それが現れ、あなたを満たし、体を通して生き始めるのです。
Q では、氣づきのセンターに氣づき、ビーイングに明け渡し、恩寵の扉を開くことは必要ないのですか?
それは、自我を手放し何もしないことへのステップです。
私たちは、思考に同一化し、常に外側に向かい続け、何かをし続けています。
その状態で、「何もせずただ自我を手放しなさい。」と言っても、捉えどころがなくどうしたらいいのかわかりません。
そのために、氣づきのセンターに氣づき、ビーイングに明け渡し、恩寵の扉を開くというステップが役に立つのです。
またそのステップを使わずに源に戻ると、体を通して生きることを見失っています。
しかし、3つのステップを使うと、それが体を通して生きることに繋がります。