ナマステ🙏
あなたの魂の計画を読み解く
「ソウルプラン・リディング」のデーヴァです🤗
昨日の12月11日はOSHOの誕生した日。
OSHOは1931年12月11日に生まれ、1990年1月19日に亡くなりました。
OSHOの誕生日は、私たちサニヤシンの間でもとても大切な日でお祝いをするのですが、私のお世話になっているネパールのOSHOアシュラムでも毎年OSHO BIRTHDAYは盛大にお祝いします。
ネパールやインドの人たちにとって、自分のグルの誕生日はとても大切なものなのです。
アシュラムに来られない人は自分の家でお祝いしたり、サニヤシン同士が集まってお祝いします。
みんなでダンスしたり、歌を歌ったり、その後に瞑想で締めるという感じです。
(2年前のoshoバースデーの写真です。娘はこの日テイクサニヤスし、サニヤシンになりました)
さて、前回の「なぜOSHOサニヤシンになる決意をしたか パート2」ではついにネパールへ入るというところで終わりました。
それでは、
「なぜOSHOサニヤシンになる決意をしたか」
パート3 始まり〜
いよいよネパールに入ったわけなのですが、これから先どうやってチベットへ入るかもわかっておらず、運任せにする事に。
とりあえずは、バックパッカーの集まる「タメル」という場所のゲストハウスに泊まる事にし、そこでチベット情報を集めようとしたのです。
その当時はタメルには日本人バックパッカーもたくさんいて、(最近は日本人はあまりいませんが)古本屋に行けば誰かが売った日本のガイドブックが手に入ったのです。
何軒か古本屋を周ってガイドブックを見たのですが、ネパール側からは単独でチベット入りはできない、ということがわかりました。
カトマンズで1週間くらいのチベットツアーに申し込み、また戻ってこなければならないのです。
さて、困った私はとりあえず現地の旅行会社へ行ってみる事に。
そこでもやはりツアーに申し込まないとチベットへは入れないということがわかり、落胆する私。
とりあえずカトマンズからチベットへツアーで入り、途中でツアーを抜けて外国人を受け入れてくれるチベット寺院を探そうという計画を立てたのです。
(若さもあって、ビザの問題やその他イロイロなーんにも考えてませんでした)
そして、何日か滞在しているうちに、ネパールもとても魅力的なところで、ここにもチベット仏教を勉強できるところがあるということが分かったのです。
しかし、子供の頃からチベットへ憧れ続けた私は、なぜかネパールでチベット仏教を学ぶという方向へは考えられなかったのです。
そこで、チベットへ行く前にネパールのヒンドゥー寺院などへも行き、ヒンドゥー教にも触れてみようと思い、ヒンドゥー教の聖地であるパシュパティナート寺院へ行ってみる事に。
そして、そこでこれからの私の人生が変わる事になるのです
その当時旅へ出る時は水彩画の道具を持っていき、旅先でスケッチなどをしていたのですが、パシュパティナートへいく時も画材を持っていきました。
そこにはサドゥーというヒンドゥー教の修行僧がたくさんいるので、ぜひ描いてみたいと思ったのです。
(ここがパシュパティナート寺院)
到着してみると、そこでは亡くなったなった人の火葬をしていて、悲しんでいる遺族やそれをただ眺める人がいたり、散歩をしている人や子供が遊んでいたりして、日本で見てきたお葬式とはかなり雰囲気が違うのです。
死というものが本当にごく日常のものなのだという感じなのです。
この光景に驚きながら広い敷地内を見学していると、ついにサドゥーに出会えたのです。
サドゥーは見た目も強烈で、ターバンを巻いていたり、長いドレッドヘアーをぐるぐる頭に巻いていたり、顔や体に灰を塗っていたりと、初めてみる私は少し恐怖を感じました。
(こんな感じでサドゥーがたくさんいました)
この強烈な見た目に惹かれ、絵を描きたいと思った私は勇気を振り絞りサドゥーにお願いをする事に。
サドゥー達はとてもフレンドリーで、外国人の女が絵を描くことを許可してくれたのです
サドゥー達はのんびりと火にあたっていたり、マントラを唱えていたりしてあまり動かないので、絵を描くにはもってこいのモデルです。
これを機に私はガンガンとスケッチし、しばらく眠っていた絵心に火がついたのです。
サドゥーに毎日来て絵を描きたいというと快諾してくれ、それからはチベット行きも忘れ、毎日サドゥーの元へ通う事になったのです。
サドゥー達は解脱のために出家し、瞑想に励んでいるのですが、それはそれは皆んなおもしろいキャラなのです。
自分を描いてもらいたくて私にお願いに来るサドゥーもいれば、カッコよく描いてもらいたくてあれこれ注文をしてきたり、仕上がりにケチをつける人もいれば、本当にお茶目な人たちでした
中には真剣に修行をしている人もいて、その当時20年間片足で立っているババや、片腕を上げたままのババ、瞬きをしないというババもいて、彼らと過ごす時間は異空間に連れて行かれたような不思議な感覚がしました。
(当時書いたスケッチです)
さて、そんなこんなで結局パシュパティに沈没し、毎日せっせと絵を描いていたのですが、ある朝いつもと同じようにパシュパティに行くと、なんと、ババジの絵を描いている若者がいるではありませんか
さっそく顔馴染みのババジに呼ばれて行ってみると、彼はとても良い絵を描いていたのです。
彼はネパール人でネパールのアート大学で絵を勉強し、よくここでサドゥーの絵を描いたりしているとのことでした。(そして彼と数年後に結婚する事になるのですが)
同年代の私たちは意気投合し、彼のアーティスト仲間も呼んで翌日から毎朝ここでスケッチをする事になったのです。
3ヶ月くらいサドゥーの絵を描き続けた私はそろそろサドゥー熱も落ち着き始め、当初の目的だったチベット行きをそろそろ本格的に進めようかと決心しました。
そのことを彼に相談すると、自分は良い瞑想センターを知っているからチベットへ行く前に体験してみるといいといって、とある瞑想センターへ連れて行ってくれる事になったのです。
(Osho Tpabanという場所で、私はそれから深く関わる事になるのです)
バスに揺られ30分くらいの山の中にその瞑想センターはありました。2000メートルくらいの山々に囲まれたその場所は、空気もキリリと引き締まっていて、明らかに普通の森と違うのが私でもわかりました。
彼曰くこの森はNagarjun Hillといって、何千年も前から瞑想者が瞑想をする森だったので、今でもそのバイブレーションが感じられるらしいのです。
(こんな森に囲まれたところです。緑の屋根が瞑想ホール)
いざ瞑想センターへ入ってみると、瞑想ホールがありました。入ってみると正面にOSHOの大きな写真が飾ってありました。
当時の私はグルなどを崇拝するのは瞑想ではない、というコテコテの瞑想者のイメージを持っており、いきなりグルの写真が現れてものすごく反感を持ちました。
「グルを崇めるなんて瞑想者のする事じゃない、私には理解出来ない」と彼にいうと、まあ今日はもう帰りのバスもないし、とりあえず一泊してOSHO瞑想でも体験してみればと言われ、しぶしぶ一泊する事に。
そして夜の瞑想に参加するために瞑想用の服を着てホールへ行きました。
何が行われるか何の説明も受けていなかった私は、普通に目を閉じて座る瞑想をやるものだと思っていたのですが、始まってみると・・・・。
突然音楽が流れ・・・踊っているのです、参加者達が。
何が何だかわからずに周囲を見渡していると、みんなただ楽しく音楽に合わせて踊っているのではなく、何かが違うのです、普通のダンスではないのです。
その姿がとても神聖な感じで、ついに私もゆるゆると体が動き始め、ダンスをし、その後の講話を聞いたりし(OSHOの英語は全く理解出来ませんでしたが)、いつの間にか夜が更けて行きました。
翌朝、まずは朝のダイナミック瞑想という瞑想があってこれは絶対に参加した方がいいと言われて、何の疑問も持たずに参加する事に。
説明を受けてみると、何やら私の考えていた瞑想とはかなり違うのです。
激しく鼻で呼吸したり、叫んだり、ダンスしたり、瞑想って目を閉じて座るものだと思っていた私には到底受け入れ難いものでした。
参加してしまったので仕方なく、最後までやってるフリをしながら1時間を潰そうと決意したのです。
そして、いよいよ瞑想が始まり、なんだか混沌とした音楽がはじまると周りの人たちは鼻をフンフンさせながらものすごい息をし始めました。
あっけに取られて眺めている私の元へ瞑想リーダーがやってきて、「やりなさい」みたいな感じでジェスチャーするのです。
仕方がないので、少し始めてみるのですが、始めてみるとなんだかもう無我夢中になってしまいました。
次のステップはカタシス。自分の感情を思いっきり出すのですが、そんなの私には絶対に絶対に無理だし、やりたくもないと思っていたのに、不思議と荒々しい呼吸をしたあとは自然に訳のわからない感情が溢れ出るのです。
もうその他の人にまみれ、私もギャーギャー叫んだり泣いたりしました。
そんな感じで嫌だ嫌だと言いながら、なぜか初のOSHO瞑想をやっている私でした。
それでは、今日はこの辺で
次回はいよいよ最終回
最後まで読んでくださりありがとうございます
フェリ・ベトンラ🙏
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