村に残る南朝街道伝説を探る? | おおしか村の不思議!

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南朝方の信濃宮・宗良(むねなが)親王を護り、関東の拠点となった古い歴史を誇り、歌舞伎の里と知られる信州・信濃大鹿村の、知られざる謎を解き明かします。

「すべての道はローマに通ず・・・・」の格言にまつまでも

なく、古今東西、政治、経済、文化の発展に道の果たした

功績ははかり知れないものがあります。


人々が生活する場所には、自然発生的に道ができ、それ

以外の場所では、その場所を領域とする獣が通い慣れ

踏み固めた「獣道」に沿って、川沿いや尾根伝い低い峠

などを人間が利用する道になっていくとされています。


そこで、およそ千年前に、四方を峻嶮な山に囲まれた

未開の土地に入り定住してきた村人が悲運の南朝の

皇子を支えてきた街道を愛情を込めて「南朝街道」

呼んだ村の古道を辿ってみます。


村誌によると、村に通じる重要な古道は、東西南北

横たわる全て山を越える道が存在し、そのうち東の

赤石越え狩猟や杣人が利用する程度の交通路

主要な道路は南北に通ずる「秋葉街道」西に伊那山脈越え

「中道街道」「大草街道」だったと伝えています。


この三つの古道のうち「中道街道」は平安時代に京から

落延び村を開拓した一族がこの道を通って入ったとされ

南北朝時代に入ると、村に入った南朝方の親王を護る

軍勢が往来し、大河原城の戦いの時は、敵方が大挙この

道を利用して攻め込み正に「南朝街道」と呼ぶに相応しい

街道だったのです。


「大草街道」親王に忠誠を尽くした香坂高宗が親王を

大河原城に迎えるにあたって居城「大草城」からの軍用

道路として整備した道でこれは「南朝街道」そのものと

言えます。戦乱がわると利用されなくなり、その後

小渋川沿いに開かれた県道が現在では村の幹線道路

なっています。


いまは「秋葉街道」と呼ばれている、村を南北に縦断する

国道152号線はかっては村人によって「南朝街道」と呼ば

れていたのが、近世になって秋葉信仰と結びついて

「秋葉街道」と愛称が変わったのですが、現在は往時の

面影はなく途中未舗装だったり、通行止があったりして

「幻の国道」と揶揄されています。


しかし、村の過去の歴史を辿る時、この街道が村の

発展に大きく寄与してきたことを考えると、どのように

作られ利用されてきたのかその成り立ちを探ることを

避けて通るわけにはいきません。


そこで、古い時代の村の成り立ちを知る上で古民家に

遺された興味深い古文書に「・・・建御方命、村ニ入リ

葦原ニ行宮ヲ建テ暫ク山野ニ御狩ヲナサレ山塩ヲ発見

自ラ捕獲セラレシ鹿肉の調理ニ用ユ・・・・」と古事記

国譲りに登場する命が権力争いに敗れ諏訪に

逃れ、その後、鹿を追って村に足を踏み入れたことを

示す記述の中にそのヒントを見ることができます。



更に、古文書に「梨原鎮座諏訪神社ハソノ創建遼遠

シテ詳ラカナラズト雖モ、今諏訪ニ御遷居セラレシ・・・・」

村の諏訪神社が元社であることに触れ、諏訪との交流

が頻繁に行われたことを窺える記述があります。


このことから、村に通じる最初の道は諏訪から高遠を

経て村に至る街道があったと考えられますが、更に南下

して山郷まで通じていたかというと多分疑問が残り

ます。


この疑問を解く鍵は「下伊那郡史}の秋葉街道に関する

記述「秋葉街道は古くは三州街道飯田八幡宮を起点と

して遠山郷を経て火の神さま秋葉神社の参拝に使った

信仰の道」と伝えています。これによれば秋葉街道は

現在のルートとは異なり、遠山郷から飯田に通じるルート

だったのです。


平安時代になると、村が南朝方の東国の拠点になった

ことから、さらに重要な街道となり、後に村人が口にする

ようになった「南朝街道」は北に諏訪家、南に遠江井伊家

西に飯田在の知久家と南朝方の武将が守りを固め、

それを結ぶ街道となり名実共に親王を護る重要な役目を

果したのです。


戦国時代になると武田信玄が村を治めるようになり

三河徳川家康軍攻略の軍用道路となり、信玄が各地に

整備した「棒道」同様に大軍の人馬の通行が可能の戦略的

街道に変っていったのです。


戦乱が終り、整備された街道は秋葉信仰の隆盛と相まって

「秋葉街道」となり、人の往来も頻繁になり、宿泊所や

食事処が開かれ、青木谷には横山七ヶ寺まで建立され

街道を通じてさまざまな文化を村にが齎したのです。


柳田国男がこの道を「諏訪路」または「遠山道」と呼びたい

と書き残していますが、時代が代って、愛称が「秋葉街道」

になった今も、村人が「南朝街道」に拘るのは、南朝に

忠誠を尽くした祖先への崇敬の念を持ち続けているから

だと思います。


因みに、日本で計画的に道路が整備されるようになった

のは大化二年(646年)孝徳天皇による「改新詔」による、

山陽道、東海道、東山道、山陰道、北陸道、西海道、

南海道で、「すべての道は京に通ず・・・・」と時の権力の

維持に道が大きな役目を果たしていたのです。



観音菩薩 1


             大西公園の菩薩像

稲荷神社


                六地蔵と稲荷神社

香松寺


               香松寺の山門