祖母が亡くなってから、祖父母の家は慌しくなりました。


お通夜、葬式の準備です。

しかも全てを祖父母の家で行うので、かなり忙しくなります。

いくら身内だけでやるとはいえ、それなりの準備は必要。

葬儀屋と相談してどんな形式にするのか、どのように進行すればいいのか、お坊さんはどうするかなど、やらなきゃいけないことは山積みでした。


ただでさえ祖母の看病で寝てなかった母親や叔父だったのに、これだけ忙しいと休む間もありません。

祖父もほとんど休めてませんでした。

葬式もそうですが、やはり親戚たちの体がとても心配でした。


ただ孫たちに出来ることは限られてました。

叔父たちの指示に従って雑用をするのが精一杯。

あとは祖母の遺影に使う写真を選んだり。

アルバムを見ているといろんな思い出がよみがえってきて、涙が自然とこぼれてきました。



お通夜前日の夜。

大人たちはみな買出しやら一時帰宅やらで不在に。

家には祖父と孫たちだけになりました。

もちろん布団に横たわっている祖母もいます。


そこで祖父は孫たちを呼び、祖母の近くでビールを飲み始めました。

そしてこう語ったのです。

「いつも風呂上りにビールを飲んでいた。3杯目を飲むとすぐ怒られた。祖母の言うことは正しいことばかりで、いつも怒られてた。でもこれからはもう怒ってくれる人もいない。お前たちには絶対に怒らなかったのにね。やさしかった祖母の姿をいつまでも忘れないで欲しい。それが一番の供養になるから。」

と言って、ビールをくいっと飲み干しました。



その後、ボストンの大学に通っているいとこが来ました。

なんでも昨今の松坂ブームで日本行きの飛行機が取れずに間に合わなかったんだそうです。

祖母の姿を見るなり、ただただ号泣してました。

孫の中で唯一自分だけが死に目に会えなかったと。

それを一番悔やんでました。

僕もいとこの横で一緒に号泣しました。

叔父が「たくさん泣け!泣くことが供養になるんだ。」と言っていたのが印象深かったです。

いとこはほぼ一晩中泣いてました。



次の日。

やっぱり朝からお通夜と葬式の準備で忙しかったです。

葬儀屋の人がちょくちょく出入りしながら、叔父たちと打ち合わせ。

叔母や母も飾り付けや祖母の最後の身だしなみに余念がありませんでした。

さらに大阪から祖母の兄弟まで駆けつけての作業に。

僕たちが入る隙はなく、延々と雑用してました。


お通夜は一般的な形式だったと思います。

お坊さんがお経を唱えて、遺族が順に線香をあげて、またお経で締めるといった感じでした。

大体1時間ぐらいでしょうか。

その後はみんなで飲み食いです。

久しぶりに会った親戚もいたので、色々と近況報告をしたり、酒を注ぎに行ったり。

またアルバムを見ながら思い出話に浸ったり。



親戚がほとんど帰って、酒を飲むのが僕と父と叔父の3人になりました。

祖父も起きると言い続けてたんですが、年齢と体力の問題を考えて早めに休んでもらいました。

父と叔父も早く休ませてあげるべきだったんですが、2人とも眠れない様子でした。

3人で酒を飲んでるときは思い出話をしながら、ただただ号泣です。

線香をこまめに変えながら、祖母との思い出を語ってました。


ほとんど寝てないせいでしょう。

叔父と父は少し飲むと寝ちゃいました。

その後、妹と2人で祖母との思い出について語りながら夜を明かしました。

あれだけ妹と深い話をしたのは初めてだと思います。


孫の中で妹が一番おばあちゃんっ子でした。

自由奔放で常識にとらわれない祖母の生き方に一番影響され、憧れてた妹。

自分の進路も親の一言より祖母の一言で決めたみたいです。

うちに友達まで招待して、祖母の自慢をしていた妹。

「派手なのが好きだから」といって祖母の装束をピンクにしたのも妹です。

それほど祖母を尊敬し、大好きだった妹。

かなりショックだったらしく、ずっと泣いてたし、いろんな思い出を語りました。




そして葬式当日。

朝から親戚一同が集まりお経を読んでもらいます。

一通り線香を上げると、出棺。

最後に花を入れるんですが、祖母は菊が嫌いだったらしく、代わりに蘭を入れることに。

最後まで自由な祖母を見た気がします。


出棺の時点ではみんな泣き崩れてます。

祖父も、母も、叔父も、叔母も、父も、祖母の兄弟も。

すすり泣く声と泣き叫ぶ声に送られながら、出棺していきました。

さっきまで晴れていたのに急に雨が降り出しました。

空まで悲しんでるのだろうと勝手に解釈しながら、火葬場行きのバスに乗り込みました。



火葬そして納骨。

2度目とはいえやはりショックです。

さっきまでの姿から変わり果てた祖母。

喪主でもあり、長男でもある叔父でしたが、納骨は最後まで出来ませんでした。

親戚一同が骨を拾った後は孫たちで最後まで拾いました。

「孫がしてやることが最高の供養になるんだ。」と伯父はずっと言ってました。

まだ気が動転してて、若干冷静さを失ってたんだと思います。

無事納骨も終わり、うちでお坊さんに最後の供養をしてもらいました。

お坊さんはお経が終わった後に

「これからおばあさんに決してお願いはしないでください。『こっちは心配ないよ、だからそっちでも心配なく過ごしてね』とするのがいいです。毎回仏前ではいい報告が出来るように、心配をかけないようにしましょう。」

といってたのが印象的でした。




これがこの間の出来事でした。

ただまだ問題はたくさんあります。

残された祖父の問題が一番です。

祖父を絶対に一人にしてはおけないと、今は叔父夫婦が一緒に住んでます。

ただ叔父も家は東京にあり、子供たちもそっちの学校に通ってます。

しかも娘は来年受験を控えている身。

今は親戚のおばさんと住んでいますが、今後どうなるか全く不明です。

うちの母が見ればいいんでしょうが、責任感の強い叔父。

長男として祖父を見なきゃという思いがあるんでしょう。

そこだけは譲りません。

どうなるかは全くわかりません。




10月に父方の祖母を失ったときはここまで書きませんでした。

祖父は僕が生まれる前に亡くなってましたし、祖母も孫夫婦と一緒に住んでました。
また95歳と言う年齢のせいかみんなそれなりに覚悟はしていました。

さらに痴呆が激しく、晩年は僕たちの存在すら忘れられていました。

しかも山口と名古屋という距離だったんで、年に1回会うかあわないかの存在。

もちろん葬式のときは悲しみもありましたし、喪失感もありました。

ただ今回ほどの情はわかなかったんだと思います。



今回は本当に急に訪れた死です。

祖父母の家はうちから2時間もあれば行けたので、何かあると行ってました。

しかも運動会や学芸会などイベントがあるたびに来て、孫の成長を見守ってくれました。

正月は必ず祖父母の家で迎えてましたし、8月18日は毎年うちの家族と叔父家族とで祖父母の誕生日を祝ってました。

72歳とまだ若く、入院しても元気でそのまま春を迎えそうな雰囲気だったそうです。

そういうこともあるんでしょう。

今回の悲しみは本当に深いです。

こうやって文にしているだけでも涙ぐんでしまいます。




このひと月で二人の祖母を失った僕。

もうこんな事はこりごりです…