5/❷/⑵/1章/『スコ史』 | 藤原の田中のブログ

藤原の田中のブログ

ブログの説明を入力します。

 学者の中には、地名や円形砦の存在から、年代記に出ているよりももっと早い時期にスコット人のスコットランド本土進出はあったのではないかと推測する者もいる。とにかく、西暦500年頃には、スコットランドへの確定的な定住がファーガス・モア(Fergus Mor)とその2人の弟によって行われた。ファーガスはキンタイヤ(Kintyre)半島(訳注1)に、ロアン(Loarn)はオーバン(Oban)周辺の地域(ローン(Lorn)湾周辺)に、アンガスはアイラ(Isla)島とジュラ(Jura)島にそれぞれ定住した。彼らの王国は非常に小さかったが、それでもファーガスの遺産はすぐに2人の孫の間で分割された。すなわち、コムゴール(Comgall)とガブラン(Gabhran)である。前者の名前は、今日、(ダヌーン(Dunoon)の近くの)「カウル(Cowal)」という地名に残っている。また後者は(その子孫がスコットランド王家になるが)、ナップデイル(Knapdale)を支配した。ダナッド(Dunadd)の岩の要塞は、スコット人の首都であった。しかし、王たちは互いに争ったので、もしも彼らが基礎的なキリスト教を受け入れていなくて、アイルランドからの支援を受け取っていなかったら、ピクト人に屈服していたであろう。563年にコロンバが到来したことは、単に宗教的な意義があるだけではなく、政治的意義もあったのである。(訳注2)


(訳注)

1.キンタイヤ半島の位置ですか。確認してください。スコットランド西部の半島ですね。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キンタイア#/media/ファイル%3AArgyll_-_Kintyre.png



2.アイルランド王家の血を引く聖コロンバは563年、12人の若い修道僧と司祭を伴い、マル島の南西に浮かぶ小さなアイオナ島に渡ってきた。(武部,135頁)