6/⑴/9章/『スコ史』 | 藤原の田中のブログ

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 ジェームズが日常的な問題を処理するにおいて、常にイングランドの王冠を意識していたとは思われない。しかし、それでも彼が常に見出してきた解決策は、その偉大な野望を実現可能なものにするようなものであったことも確かだ。なるほど、彼は幸運ではあったが、でも、能力もあった。また、彼には勇気が欠けており、体格もあまりよくなかったが、それでもフランス人オブザーバーが述べているとおり、からだが丈夫だと思われたいと真底から思っており、足がややひ弱ではあったが、馬を上手に乗りこなせた。さらに、性格的には臆病であったが、時には決然として素早く行動することもできた。時折軍隊を率いて戦場に出ることもあった。嫁が欲しくなったら、大海原を船で乗り越えて、嫁を連れ帰った。(訳注1)大叔父のヘンリー8世は嫁候補の肖像画を送らせて、それでその人物に決めてしまったが、ジェイムスはそんな大叔父を軽蔑していた。(訳注2)ジェイムスの政策は複雑であった。しかし、彼は複雑な時代を生きたのである。敵のみならず味方の一部も、不誠実な人ばかりであった。ジェイムス自身も不誠実だったが、これまで一般に思われてきたほどはたぶん不誠実ではない。彼の曖昧さの一部は、彼自身の人格における確かな発達であった。若い頃彼は、自分の母親は自分の父親殺しだという考えを吹き込む人たちによって育てられた。そして、母親は、折あれば彼の主権性(訳注3)を奪おうとしていたのみならず、彼が唯一の真実の教会と教えられてきたプロテスタント教会をもなきものにしようとしていると教えられてきた。母親が死んだあとは、彼は、母は罪を犯していたのではなくて、罪を犯されていたのだと信じるようになった。1590年、彼は、教会総会で語ったようにイングランド教会の典礼は、「英語で行われる邪悪なミサ」であり、「復活祭とクリスマス」を守る正当性はないと考えていた可能性が高い。 しかし、その後10年もしないうちに、彼がこれらの問題について別の見解をもっていたことは確かである。(訳注4)



(訳注)


1.ジェイムスの妻アンは、デンマーク王女。ジェイムス6世自らデンマークに赴き、連れ帰って来た。当時の王族としてはたぶんめずらしい。


2.ヘンリー8世は、アン・クリーヴズの肖像画をドイツから送らせて、それで結婚を決めた。実際に会ってみて、あまりにも想像していたのとちがうので、結婚を取り止めようとしたが、時すでに遅しであった。もちろん、結婚は長くは続かず、すぐに離婚してしまった。


3.主権性:たぶん、国家や国家元首が、外部のものの影響・支配を受けずに、自国のことを自分で決められること。メアリー・スチュアートは、共同統治などをジェイムスに提案していたみたいだ。


4.つまり、だんだんイングランド教会のほうに傾いていった。それが長老派の聖職者との間で問題になる。