3/⑶/8章/『スコ史』 | 藤原の田中のブログ

藤原の田中のブログ

ブログの説明を入力します。

 スコットランドの状勢は普遍的な注目を集めつつあった。スペインもフランスも、自分たちの交渉相手はまだ少年の国王としようか、それとも囚われの女王としようか考えあぐねていた。メアリーはまだ全然、カトリックの擁護者たる地位を追われようとは思っていなかった。彼女はしばらくの間、フランスのアンリ3世(訳注1)が彼女の息子のところに大使を派遣することを妨げることに成功した。1579年、彼女はジェームスと直接連絡をとろうと試みた。しかし、彼女の秘書は受け入れられなかった。なぜならば、ジェームス宛ての手紙の宛名が、「スコットランド王太子」になっていたからだった。いらついたメアリーは、フランスが彼女のことを見捨てるのではないかと恐れ、1580年、彼女自身、彼女の息子、彼女の王国をスペインの庇護下におくことを約束した。一方、フランスにおける彼女の友人たちは、「合同(Association)」計画(訳注2)を推進した。すなわち、そこでは母親のメアリーが引き続き女王であり続け、息子のジェームスが実際に統治を行うというものだった。

 
 
(訳注)
 
1.アンリ3世(1551-1589,フランス王在位:1574-1589)(Wiki, Jpn, 「アンリ3世(フランス王)」)
 
2.Burton, v, 195.
 
  It is at this point that we come across the most distinct of the generally faint traces about the " Association " or project suggested in France of uniting his mother's name in the government, and making it a joint sovereignty.
 
 我々が「合同」、すなわち、フランスで提案されたプロジェクトで、政府の中に王の母親の名前を統合し、それを共同主権とすること、に関する一般的に微かな痕跡のうち、もっともはっきりしたものに出くわすのはまさにこの時点である。
 
  also ref: Wiki, Eng, "Association of Mary, Queen of Scots, and James VI"  1580年代に出た計画で、メアリーがスコットランドに戻り、子のジェームスとスコットランドを共同統治するようにしようとする計画。計画は不発に終わった。
 
  also ref: Donaldson, Scotland: James V to James VII, 175.