13/⑸危機/7章/『スコ史』 | 藤原の田中のブログ

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13 『規律の書(Book of Discipline)』の執筆者たちは、十分な数の良質の牧師を養成するには時間がかかることを予見して、「リーダー(reader)」職と「監督(superintendent)」職を設けることにした。「リーダー」職は、監督を受けながら教区の仕事を行ってよかった(訳注1)。「監督」職は、主要な町で説教を行うほかは、周辺の地区のことまで視る仕事であった。監督は牧師よりも報酬が高く、また、監督に割り当てられた地区は、明かに旧司教区を再調整したものだったので(訳注2)、ノックスはビショップ制(episcopacy)を支持していたとこれまで考えられてきた。しかし、彼はたしかにほかの誰よりも生まれながらの指導者ではあったが、ビショップには決してならなかった。彼は、監督という職掌は、教会行政的な観点から有益だと考えていたのだろう。しかし、それ以上へは行かなかった。おそらく監督職は、宗教改革以前の助祭長(archdeacon)(訳注3)の機能を担っていると見るのがより便宜であろう。もっとも当時は、監督職は5人任命されただけだった。(訳注4)そして、カトリックの司教のうちの何人かがプロテスタントになった。(訳注5)そのほかの者は、宗教活動ではあまり目立っていなかったが、教会行政、とくに聖職禄に関わる仕事を行うことによって生き残った。新教会の組織立てはゆっくりとしか進まなかった。教会財産に関わる牧師たちの希望は、「敬虔な想像物」として切って捨てられた。(訳注6)1562年の枢密会議法は、カトリック教会の聖職禄収入の3分の2を現職者(すべてが聖職者というわけではなかったが)に残し、残りの3分の1を王権と牧師とで分け合うことを定めた。(訳注7)かくして、壮大な教育計画は放棄された。また、聖職者への支払いは悪かった。1567年になっても、1080の教会に対して257人の牧師しかいなかった。また、リーダーと「伝道者」(訳注8)の数はおよそ600人であった。

 

 

(訳注)

 

1.「リーダー」職は、会衆に共通祈禱書や聖書を読んだりすることが仕事であった。ただし、サクラメント(洗礼、聖餐)の挙行は禁じられていた。ただし、共通祈禱書や聖書を読んだあとに、何らかの励ましの言葉(exhortation)を述べてもいいことになっていた。それらに習熟してくると、監督(superintendent)の同意のもとで牧師(minister)に格上げされることになっていた。(ref: Cunningham, i, 284)

 

2.カトリック時代の司教区のスコットランドにおける分布は、以下の地図が参考になる。撮影が下手で恐縮だが、参照されたし。

 

 

(出典:Alan R. MacDonald, The Jacobean kirk, 1567-1625 (Ashgate; Aldershot, England, etc., 1998), p. 190)

 

 中世盛期から後期に至るまでのスコットランドには、全部で13の司教区があった。それは以下の通りである。①Orkney(オークニー) ②Caithness(ケイスネス) ③Ross(ロス) ④ Moray(モリー) ⑤Argyle(アーガイル) ⑥Isles(アイルズ) ⑦Aberdeen(アバディーン) ⑧Dunkeld(ダンケルド) ⑨Dunblane(ダンブレイン) ⑩Brechin(ブレチン)⑪St Andrews(セント・アンドリュース。1472年より大司教区) ⑫Glasgow(グラスゴー。1492年より大司教区) ⑬Galloway(ギャロウェイ)(ref: Wiki, Eng, 'Dioceses of Scotland in the High and Middle Medieval Ages')

 

 一方、『規律の書』に記されていた監督区の分布については、以下の地図の通りである。

 

 

(出典:上記Alan R. MacDonald, p. 191)

 

 監督区は全部で10ある。それは以下の通りである。⑴Orkney(オークニー) ⑵Ross(ロス) ⑶Argyle(アーガイル) ⑷Aberdeen(アバディーン) ⑸Brechin(ブレチン) ⑹St Andrews(セント・アンドリュース) ⑺ Edinburgh(エディンバラ) ⑻ Glasogw(グラスゴー) ⑼ Jedburgh(ジェドバラ) ⑽Dumfries(ダンフリース)

 

 たしかに、中世における司教区の区割りをベースにして、16世紀当時の人口の分布なども加味して再編したような印象を受ける。つまり、そこから新教会を設立した者たちは、実はカトリックの監督制を支持していたのではないかという疑問が頭をもたげてくる。のちの『第2規律の書』では、監督(superintendent)職は廃止されている。

 

3.宗教改革以前の助祭長(archdeacon):助祭長は司教または大司教を補佐する役職である。大きな司教区(大司教区)はいくつかの助祭長区に分かれていた。たとえば、セント・アンドリュース大司教区は、セント・アンドリュース助祭長区とロジアン助祭長区とに分かれている。

 

4.その5人の名と担当地区は以下の通り。

 

  John Spottiswoode for Lothian

 

  John Winram for Fife

 

  John Willock for Glasgow

 

  Erskine of Dun for Angus and Mearns

 

  John Carswell for Argyle and the Isles

 

  (ref : Cunningham, i, 281)

 

 

 

(出典:上記Alan R. MacDonald, p. 192)

 

5.オークニー、ケイスネス、ギャロウェイ各司教はプロテスタントに改宗した。(ref: Cunningham, i, 223-224)

 

6.改革者たちは、旧教会の財産を軒並み新教会に移行させ、これによって改革者が行おうとしている教会改革、すなわち、司牧活動の充実、青少年の育成強化、貧民の救済を行おうとしたが、すでに教会財産に対して少なからず利権をもっている貴族たちの賛同が得れず、議会では『規律の書』の採択は見送られる。貴族たちの中には熱心なプロテスタントもいたが、多くは、これを機会に教会から良い土地を分捕ってやろうと考えていた者だったようで、彼らは、『規律の書』に書かれた改革者たちのさまざまな計画を「敬虔な想像物(devout imaginations)」と揶揄して、却下にしたようである。(ref: ed. by W. C. Dickinson, John Knox's History of the Reformation in Scotland (1949), vol. i, p. 344)

 

 もっとも、通常は「多くの貴族は貪欲だった」と書かれているが、当時のカトリック教会は、非常に良い土地をもっていたようである。おもに寄進によるものであろう。一方で、貴族たちの所領は、あまりよい土地ではなかったらしい。思い出してほしい。スコットランドは、概して土地がやせていて、農耕に向かない土地が多い。良い土地ばかり押さえて、小作人に農耕をやらせ、地代をとって肥え太る教会を見て、やせた土地ばかりで低い収入にあえぐ貴族たちがカトリック教会をどう見ていたか。貴族たちが貪欲というよりは、カトリック教会がうまくやり過ぎていたという見方はできないであろうか。

 

7.三分の一聖職禄制(the thirds of benefices)のこと。聖職禄保有者は、その収入の三分の二は終生もち続けることを許され、残りの三分の一は王権が徴収し、王権が自らに必要な分だけをまず取り、残りを牧師に対する報酬(stipend)の原資とした制度。これによって貧困や財政難にあえぐ牧師、王権のための一助となるようにした。1562年2月の枢密会議法で決まった。しかし、王権ばかりが過大に取り、牧師に対する支払いは極端に低く、また不規則だったので、1567年に、「まず牧師が必要な分だけを取り、残りを王権が取る」というように改正された。(また、徴収権や徴収実務も王権から新教会へ移されたようである。)これは、当時メアリー前女王派との内乱状態にあった新国王ジェームス6世の支持派、かつ、当時のスコットランド政府を形成していた者たちが、新教会の支持を取りつけようとして行った改正である。

 

 なお、本文中「すべてが聖職者というわけではなかったが」という括弧書きは、おそらく、聖職禄の保有者には、聖職者ではなくて、平信徒のコメンデーターもいたということではないかと思われる。コメンデーター(commendator)とは、聖職禄を託された者のことである。たとえば、修道院長職は、よく国王や大貴族の次男坊や三男坊などが任命された。ただし、本当に修道院長として赴任するのではなくて、コメンデーターとして、すなわち、名ばかりのもので、ただし、その収入を受けることができるとされた。(ここが大事!)これによって国王や大貴族の次男坊や三男坊は高い収入を約束された。(このような、俗人で聖職禄を託された者を"a lay commendator"という。)

 

 つまり、本文中「カトリック教会の聖職禄収入の3分の2を現職者に残し」というのは、とくに上記のような既得権益者に十分な財政的配慮を行ったという意味ではなかったかと思われる。その上で、金欠にあえぐ王権と牧師にできるだけのものを回そうとしたのである。こうして見ると、既得権益者がいかに強かったかがうかがえる。王権よりも優遇されているような気がする。ここに、一気に「修道院解散」まで進んだイングランドの宗教改革との対比が見られる。イングランドではヘンリー8世という、イングランド史上最大ともいっていい独裁君主の、強いリーダーシップのもとで宗教改革が進められていったのである。それに対してスコットランドでは、王権が弱く、貴族、それも少数の有力貴族が強かった。このようなスコットランドで、のちに成長したジェームス6世がどのように貴族、とくに有力貴族と牧師に対して対処しようとしたかが早くも興味深い。

 

(参考文献)

〇Cunningham, The Church History of Scotland: from the Commencement of the Christian Era to the Present Century (2nd ed.) (1882) , vol. i, 304, 334.

〇Donaldson, Scotland: James V to James VII (1965), 111, 144.

〇Alan R. MacDonald, The Jacobean Kirk, 1567-1625: Sovereignty, Polity and Liturgy (1998), 7.

 

8.伝道者(原文 "exhorters"):"exhorter" とは、牧師の監督下で伝道を行う者のことである。本文では"exhorters"と引用符付きでいきなり出てくるので唐突な印象を与えられる。"exhorter" とは何かについての説明は一切ないようである。(6章以前のことはまだ読んでいないのでわからないが。)"exhorter" とは、「上級聖職者の監督のもとで宗教的勧告や説教を行う者」のことである。(OED, "exhorter")リーダーは、注1にも示した通り、牧師の監督のもとで祈禱書や聖書の朗読を行う者である。サクラメント(洗礼、聖餐)の挙行はやってはいけない。ただし、宗教的励まし(a religious exhortation)の言葉は行ってもよい。エグゾーターとは、説教師と同じようなもので、ただし、聖職者の資格のないもので、牧師などの本式の聖職者の監督のもとで説教を行いものであったか。一応、「伝道者」と訳した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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