16/⑷宗教問題:積極面/7章/『スコ史』 | 藤原の田中のブログ

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16 ノックスがスコットランドに戻ったのは1559年だった。その時までには、スコットランドはノックスを受け入れる準備ができていた。驚くべきことにフランスがスコットランドを支配していた10年の間に(訳注1)、同国のプロテスタンティズムは急速に成長していた。フランスは常にハプスブルク家と対立していたので、イングランドのプロテスタントが「スパニッシュ・メアリー」(訳注2)に対抗するのを助ける傾向にあり、スコットランドにおける火あぶりによって憎悪を目覚めさせる傾向にはなかった。スコットランド教会の長は、今やハミルトン大司教(訳注3)であった。彼はメアリー・オブ・ギーズによって左遷させられたシャテルロー公の異母兄であった。カトリックの勢力は分裂し、メアリー・オブ・ギーズは一時期、プロテスタント勢力を育てた。このような状況の中で、旧教会の批判勢力は数を増し、声が大きくなった。

 

 可燃物質(訳注4)が外からやって来ただけではなく、スコットランド国内においてもたくさんの本やバラードが出され、それらは明らかに広く読まれた。枢密会議の法は、早くも1543年にこれらの出版物を非難した。1549年の管区会議では、そうした出版物を焼却処分にするように命じた。そして、1552年2月、議会法は公式に、ラテン語で書かれたものであろうと英語で書かれたものであろうと、「バラード、歌、中傷文書、韻文」の印刷者を非難した。(訳注5)特に興味深いのは、1547年4月の枢密会議による「印刷業者ジョン・スコットを逮捕せよ」という命令である。というのは、ジョン・スコットはおそらく、1548年に『スコットランドの不満』(訳注6)を印刷した印刷業者だったからである。『スコットランドの不満』は保守的な作品で(スコットランドの民衆の間ではやった曲の名称を記したものとして重要)、彼がセント・アンドリュースで『ハミルトン大司教のカテキズム』(1552年)を印刷したのは間違いない。明らかに印刷業者は、疑わしき人種であった。

 

 間違いないことは、当局がもっとも恐れていたのは土着の言葉によって書かれた詩文であり、『良き、敬虔なバラード集』(原注)に収集されたテキストを吟味すると、なぜそうなのかがわかる(訳注7)。そのバラード集の中には、カテキズムや詩篇を韻文化したものがあるが(その中にはドイツ語から翻訳されたものもあるが)、そのほかは庶民の間ではやっていた歌の改変であり、それが新しい福音をほめたたえ、その反対者といわれた者たちを批判するために自由に使われていた。そうした中でおそらく注目できるのは、いくつかのよく知られた小詩であり、そのタイトルは少なくとも、他のソースから我々に知られているものである。(タイトルは、ここでは現代英語で表記することにする。)例えば、"Hey now the day dawns"(訳注8)、"Down by yon river I ran"(訳注9)、"The hunt's up"(訳注10)、"Ah, my love leave me not "(訳注11)などである。

 

 

(原注)スコットランド・テキスト協会(Scottish Text Society)より1897年に出版。現存するもっとも初期の版は1578年頃印刷された。しかし、他の証拠から明かに、歌の一部は1540年代にはすでに流布していた。

 

(原注に対する訳注)

 

 ここで扱われている書籍はおそらく次のもの:

 

  edited, with introduction and notes, by A. F. Mitchell, A Compendious Book of Godly and Spiritual songs; commonly known as 'The Gude and Godlie Ballatis', reprinted from the edition of 1567 (printed for the Society by William Blackwood and Sons; Edinburgh and London, 1897)

 

 

 

 

(本文に対する訳注)

 

1.10年の間に:1550年から1560年までの間。(本ブログ⑥/政治的背景/7章/『スコ史』参照)

 

2.スパニッシュ・メアリー:イングランド女王メアリー1世のこと。父はヘンリー8世、母はキャサリン・オブ・アラゴン。

 

 ちなみにキャサリン・オブ・アラゴン(1487-1536)の父親は、アラゴン王フェルナンド2世(1452-1516)、母親はカスティージャ女王イザベル1世(1451-1501)。キャサリンは、スペインとカトリックという要素を濃厚に有している女性であった。また、その実姉はホアンナ(1479-1555)。ホアンナの夫は、ブルゴーニュ公フィリップ美男公(1478-1506)。フィリップ美男公の父親は、神聖ローマ皇帝にしてハプスブルク家のマクシミリアン1世(1459-1519)母親はブルゴーニュ女公マリー(1457-1482)。マクシミリアンを通してハプスブルクという要素が入ってくる。

 

 ホアンナとフィリップ美男公の息子は、カルロス(1500-1558)とフェルナンド(1503-1564)。カルロスは1516年にスペイン国王になる。(カルロス1世として。)1519年に神聖ローマ皇帝になる。(カール5世として。)1556年に隠居し、スペイン王国を息子のフェリペ(1527-1598)に譲る。(フェリペ2世として。)神聖ローマ帝国を弟のフェルナンドに譲る。(フェルディナンド1世として。)ハプスブルク家がスペインと神聖ローマ帝国を統治することになる。これは、両側からはさまれたフランスのヴァロワ王家から見ると脅威であっただろう。ヴァロワ王家は、ローマ教皇の取り込みをめぐってハプスブルク家と争っている。

 

 話は前後するが、フェリペは、1554年にイングランド女王メアリー1世(1516-1558)と結婚する。フェリペを通してあらためてハプスブルクという要素が入ってくる。メアリーとの間に子が生まれれば、その子がスペインとイングランドを継承し、イングランドはスペインとともに共通の君主に統治されるカトリック国になってしまうであろう。これは、プロテスタントにとって耐えがたいことであったと思われる。

 

 また、フェリペはメアリーから見ると遠縁にあたる。すなわち、母親の姉の孫である。あるいは、いとこの息子である。フェリペのほうが11歳年下であった。

 

3.John Hamilton (1510/11-1571) 2代目アラン伯・初代シャテルロー公ジェームス・ハミルトンの異母兄。1547年にセント・アンドリュース大司教に就任する。(ref: Janet P. Foggie, Hamilton, John, DNB

 

4.可燃物資:ジョン・ノックスのことをいっている。

 

5.ref: Cunningham, i, 217.

 

6.本ブログ③/教会問題:教会批判/7章/『スコ史』参照

 

 

7.つまり、反権力、反教会の内容が多いということであろう。

 

8.上記Compendius, p. 192.

 

9.上記Compendius, p. 168.

 

10.上記Compendius, p. 174.

 

11.上記Compendius, p. 220.