(1636年、教会法の発布)
1635年に認可された教会法は、翌年発布された。そこで見られるのは、主教と教区法廷とのギャップを埋め合わせる試みだった。主教主催の宗教会議と国王主催の全国宗教会議が開かれることが予定されていた。そのような宗教会議は、もしも公正に構成されていて公正な扱いを受けていれば、既存の教会体制を正常に保つのに大いに貢献したであろう。しかし、こうした教会法が発布された形式そのものは、チャールズが実は聖職者の意見も平信徒の意見も聞くつもりがないことを如実に表すものであった。当該教会法は、国王の権威のみによって世に出された。次の世代の高教会派の者ですら、教会に対して示されたこのような侮蔑に対しては首を振った。主教のうち二、三人が事前に相談を受けただけでそれがすべてだった [1])。
[1] 原注:Burton, Hist. of Scotland, vi. 397. (vol. viii. 310)