栗山式食事療法を読み解く その3 | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生

栗山式では四季に応じて食べるものや食べ方を変える。

本来、野生動物は、その時その場にあるものを食べる。

季節外れのものや、遠く離れた土地のものを食べるなどという、選択の余地はない

さらに栗山式は、四季の盛衰になぞらえて年齢や病勢、そしてその日の天候も考慮に入れる。

雨など天候不良の場合、それと呼応して内臓機能が低下すると考え、難消化の食物を避ける。

人間の食欲には際限がなく、あらゆる調理技法を編み出した。

それは人工的な加工を施し、見た目に美しく、味を良くしたために、一方で不自然な食習慣、ひいては現代的な疾病を生んだと解釈していく。

同時に、多様な食文化は、複雑な思考と高度な文明の礎になったという向きもある。

その長短の折り合いをつけることに腐心して構築されたのが栗山式食事療法であると、僕個人は看取した。

そして、そこから学ぶことは「何を食べればよいのか」ということばかりに、いつになっても目が向きがちな我々に内省的な視点を与えるということだ。

つまり、食物を消化、吸収し、それを生命活動に代え、さらには排泄するのは、ほかの誰でもない自分の体なのだと。

『整った身構えと心構えと環境とを食事に加えること』

と言ったのは沖正弘だが、どうしてもその視点が抜け落ち、あれを食べろ、これは食べるなの議論に終始しがちだ。

『食物自身に生かす力や働きがあるのではない。生かす力は食物の含んでいる成分と自分の心身の内容と働きとの協力関係の上に生まれてくるものである。たとえば心身の力の強弱、働きが整っているか乱れているかの違いによって、栄養力が高まったり弱まったりするだけでなく、本来は薬になるはずのものが毒物に変わったりもするのである』

マクロビオティックの桜沢如一はこんなことを言っている。

『食養は食事の規則を教えるものだと思っている人があります。大きな間違いです。食養は金ピラや、大根や人参やコブや半ツキ米を食べることだと思っている人があります。馬鹿ですな。食養は砂糖や菓子を食べないことだと思っている人があります。ボンヤリですな。食養とは、何を食っても(好きなものばかり食って)決して病気にならず、毎日毎日力強く、(何の心配もなく)楽しく暮らしながら、何かしら残る仕事を仕上げることなのです。それは神を知ることであり、神を生きることであり、神に生きることであり、、神にかえることであり、神を不断に念うことであり、慈母を慕う幼な子のように、大自然ー絶対無限ーを賛嘆することなのです』

野口晴哉は「食養生とは?」と問われて『食物を食うこと也。今の人、食物に食われて養生を知らず』と言った。

『予は食物第一と考へ、かつては食養生を研究したこともあつた。
而して自分の得た結論はかうである。人間は自然に要求したものを食すればよい、別して食物に就いて工夫するの要はない、如何に栄養ある食物でも、これを消化吸収する能力が人に具はつて居らねば何にもならぬ。従つて食物よりも消化器を健康にすることが第一である、といふことである。
栄養物で人を健康にしようとする考へは、根本的に誤つてゐるのです。之を消化吸収する能力に栄養があるので、食物に存するのではない。
だから食ふに食物を吟味精選し、栄養の多少に心を煩つて食べるやうでは、如何なる栄養食も栄養にはならない。
ヴィタミンBの欠乏も必ずしも食物のせいではない。同じ食物を食してゐて或る人は脚気になるが、或る人はならない。ヴィタミンBの吸収の悪い體かもしれない。ヴィタミンBの消耗の激しい體かもしれない。しかし、整體操法ではヴィタミンBの特別補給をしないで、普通の食事をしたままで、腹部第二整壓點と頭部活點及腰椎二、四の整壓で脚気は治る。要するに吾々に於ては、脚気はヴィタミンBの問題では無い』

「肉を食え」「野菜を食え」

それぞれに根拠があってのことだろう。

たとえそうであっても、断片的、観念的に過ぎない知識と経験に基づく主観であるとの謙虚さはあっていい。
いわんや人に押し付ける筋合いのものでもないだろう。完全無欠の神なら別として。

あなたが食事に求めるものはなにか?

高潔な精神?
強靭な肉体?

どちらも叶わない。

無自覚の優越感と劣等感。

一方を肯定すれば、必ず他方を否定する心が生じる。

意図を手放し、善悪を超えていくことと方法論は矛盾していく。

「生きている自分」と「生かされている自分」の交わるところで、今一度日々の食事を見直していきたい。