「新食事療法全書」(昭和三七年)の巻頭の自序からみていきたい。
栗山先生が肺結核で療養中、この二つの言葉に出会い食事療法に突き進むことになる。
ソクラテス
「人間は食物を煮たり焼いたりした加工品を食べるので病気になる。野山に住む動物は自然のものをそのまま本能的に食べるので病気のもかからず、たとえかかっても自然の療能によって回復し、そのもっている寿命を、どれもこれも同じように全うしているのだ」
エジソン
「自分は三日間不眠不休で研究したが少しの疲労も感じなかった。これは菜食のおかげだ」
そこで栗山先生はすかさず行動に移す。
『しかしさて一口に自然食といっても、その選び方はまったく分かりませんでしたので、まず人間に近い動物といわれる野猿を三匹飼い、一匹には加工した食物を、一匹には生のまま、一匹には両様の食物を与え、私も猿と共に食事をし、果物と生野菜の生食で、飲料は生水だけという生活の結果、自然食が断然よいことがわかりました」
自らが実践するだけでなく、3匹の猿を比較するところが並外れている。
『身近のあらゆる野菜はもちろん、時には花の類から茸は毒茸以外は何でも食べてみました』
徹底して実践する性分のようだ。
それまでは、療養のためにいわゆる滋養物といわれる肉や魚をつとめて食べていたが、これを機に野菜食に転換することとなり、貧乏書生にとって「経済的にも大いに救われた」とも述べていて人情味がある。
『もちろんこのような生食がおいしいはずがありません』
もうすでに手の込んだ調理がされ、おいしく味付けされた料理に親しんでいるので、無理もないことでしょう。
『といってもまずくないのです。ただ病気を治したい一心でやり通しました』
その信念の強さが一面で病気を克服する要因となったことを見過ごしてはならないでしょう。あらゆる健康法に言えることです。
『最初の一日二日はどうしてもたくさん食べられないので困ったものです。そして気分が大変爽やかなほかは、容態がまえより悪くなったような気分がしました』
治る過程における好転反応だろうか。
『けれども十日、二十日たちますと、いつの間にか元気が出て食欲も増し、三ヵ月目にはいつの間にか自覚症状もなくなり微熱もとれてまるで治ったような気がしました。あれほどの重病が、全快する自信が持てるまでに回復したのです』
何事も三ヵ月の継続で体の変化が出てくるのだろう。自信を取り戻していることにも注目されたい。病気が長引くと衰弱がはなはだしくなり精神力が萎えて慢性化から抜け出せなくなる。
『よくなると現金なもので急に食物へのいろいろの欲望がおこり、体力の回復にしたがってこの要求はいよいよ強くなり、こころのたたかいは並大抵の苦痛ではありませんでした』
正直な心情の吐露である。人間の弱さ、慢心を経験しそれを包み隠さず開示している。聖人君子よろしく居丈高に唱導する指導者とは一線を画していて、僕が惹かれるところでもある。
こうした結核を克服するという原体験をもとに、その後、研究を進めオリジナルの食事療法を創始するに至る。
『人間が食物をとるのは生きてゆくためと楽しみと二通りの目的があって、楽しみながら生きてゆくのが文明人としての生活でなければならない』
この前提は最も重要だろう。ただ生きていればよいのでもなければ、病気を治すためだけに生きているのでもない。
『自分自身の体験を基として、次第に煮たり焼いたりしたものも食べてみて苦心研究をかさね、たくさんの実験の結果、今日の健康療法の献立を完成いたしたわけです』
生食一辺倒だと続かないことを身をもって知ったのだろう。現実的な範囲で生食を取り入れていくということ。それは今後見ていく個々の献立に反映されている。
『おいしく、美しく、そして効果のあるように苦心いたしました。それでも普通の料理から見れば、多少まずいかも知れませんが、しかし生きてゆくために必要なものなら、まずくとも辛抱して食べるように努めなければならないものです。つまり病人は生きるための食事を第一の食事としなければなりません。そして病人は出来るだけたのしみの食物をさけ、治療への食事を心がけるようにしてください。それには克己心と忍耐力を養わなければなりません。つまり心の修養と食物による肉体の養いとが両々相まって初めて回復への道を歩むことができるのだと思います』
時代性というものもあるでしょうか。こうした修養的な臭みは現代では敬遠されるかもしれません。しかしながら、普段の食事を質素にすることで、たまに食べるご馳走が色鮮やかになることもたしかでしょう。ハレとケを使い分けることには異論はないことと思います。期間を決めて集中して行う意義も、信念の強化と相まって、療法としての食事にはあることでしょう。
もう少し言えば、同じものを食べても、おいしく感じるか、まずく感じるかはそれぞれの主観の問題であって、自然食がそのままおいしく感じる可能性もあるわけです。
以上、「自序」に栗山先生の肉声を感じたので、詳しく見ていきました。今後、各論を読み進めていきたいと思います。