栗山式食事療法を読み解く その1 | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生

我が家の本棚には古今東西の食事療法にまつわる文献が並んでいる。

職業柄、一通り知識を得るために読んだものだ。

 

その中でも、特に共感したものがある。

しかも最近、ふと気になって頭を離れなかった。

そういうわけで再読するに至った。

 

現在あまり知られていないが、栗山毅一が提唱した「栗山式食事療法」だ。

 

栗山先生は幼少のころから病弱で、あらゆる病気を経験し、23歳の時に肺結核となり、いよいよ療養生活を余儀なくされた。

 

朝は卵、昼は魚、夕は肉をしきりに食べたが、一向に好転せず悪化の一途をたどった。

 

活路を見出すべく、様々な文献にあたることになる。

 

そこでソクラテスの言葉に出会う。

「人間は物を焼いたり煮たりして食べるから病気になるのだ」

 

さっそく猿を3匹飼い実験した。

 

非加熱食のみ

非加熱食と加熱食の混合

加熱食のみ

 

それぞれを与えて健康状態をつぶさに観察してみた。

 

非加熱食のみを与えた猿は健康体となり、一番人懐っこく芸をよく覚えた。

加熱食のみを与えた猿は病弱となり、人に懐かず芸を覚えなかった。

混合はその中間的な性質となった。

 

観念や精神論ばかりに偏らず、実証的なところがおもしろい。

 

さらに栗山先生は95才の長寿であった。

 

身をもって実証されたわけである。

 

現実主義であったことも、こんなエピソードからわかる。

 

玄米食を提唱する大家(玄米博士)との対談。

 

博士「玄米は芽が出るから生きているが、白米はまいても芽が出ない。芽が出ないものを食べても栄養にならんと思うのですが」

栗山先生「では、博士は玄米を生で召し上がるのでしょうか。生で召し上がるのなら話はわかりますが、炊いて食べるとすれば、炊いた玄米からは芽が出ないのですから同じことだと思います」

博士「しかし、玄米には脂肪、無機質、ビタミンなど、あらゆる栄養分がありますから、体によい道理ではありませんか」

栗山先生「それなら、白米とおからを食べればいいわけです。白米はデンプンですが、おからには、博士のおっしゃるとおり、脂肪、無機質、ビタミンがありますから」

博士「玄米はかめばかむほどおいしくなりますよ」

栗山先生「何回くらいかむのですか」

博士「一口、250回かみます」

栗山先生「250回という数はともかく、よくかむという点では大賛成ですが、私は忙しいので、とても250回もかんでいる余裕はありません」

 

もちろん玄米食は、ごく少量を時間をかけてゆっくりと食べるという点においてけっこうですが、それは玄米食に限らず、食事の食べ方全般について言えることです。とりたてて玄米食にしなければ、と考える必要はありません。

 

対談を引き合いに出し、このように結んでいた。

 

大いに首肯できた。

 

文化の推移と病気についても言及された。

 

文化の第一の革命、火の発見。焼くという手段が取られるようになった。

第二の革命、焼くだけでは固いため煮るようになった。

第三の革命、味をよくするために塩を使うようになった。

第四の革命、砂糖を使うようになった。

第五の革命、油を使うようになった。

 

病気の歴史を見ても、食事の変換にそれが追従していると見抜き、食事革命が人間に真の幸福をもたらしたかどうかは疑問であるとした。

 

第六の革命期ともいえる現代における、食味向上のための合成添加物の乱用を見るにつけ、栗山先生の卓見に敬服せざるを得ない。

 

人間はその欲望の暴走を止めることができず、いよいよ破滅へと向かってしまうのだろうか。

 

今後も栗山式食事療法を読み解いていきたい。