必要なことは、「今・ここ」にあるから | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生


生まれた時から不況しか知らない世代のせいか、草食系というかむしろ断食系?という、個人的な性質のせいか、物欲があまりないほうで、お金を稼ぎたいとか、マイホームを持ちたいとか、かっこいい車に乗りたいとか、思わない質で、俗に言う「男らしさ」に欠けるので、頼りなくみられがちだった。

そんな僕が、なぜ今こうして人並みに生計をたてているかといえば、人間の「本質」に迫りたいという、どういうわけか僕の関心事があるからだろう。

枝葉の議論がまどろっこしくて、ストレートに「なぜ生きるのか?」「よりよく生きるとは?」が知りたくて、思いついたのが、この仕事だった。

個人的な興味から始まって、数年働かせてもらって、こんな僕でも人の役に立ちたい、という良心というか、身の丈に合わない生意気なことを考えはじめて、あるとき、寝床で絶叫したことがあった。

「どうか、この僕を使ってください!どんな試練でも甘んじて受けます!」

憧れる斯界の先人が何人かいる。

その人たちを思い浮かべて、訴えかけた。

突き抜けたい、後に続かせてほしいと。

まもなく、人生最大の不調に見舞われる。

まる1年は生きた心地がしなかった。

全身から血がにじみ、痛みのあまり一睡もできない日が続き、呼吸困難で死の恐怖におびえる夜が続いた。

その最中は、七転八倒で、冷静に顧みることはできなかったが、小康を得て、そうか、あの時の言葉が聞き入れられていたのかと得心するに至った。

一番苦しいとき、僕は近所の古本屋で、ある宗教家の本に出会い、精神的に救われた。

眠れぬ夜を「祈り」に費やすことができたからだ。

過去の自分であったら、見向きもしないこと、祈りや信仰とも無縁であった。

自力が尽き果て、救われたい一心で、自分なりに心の世界に深く分け入り、自他を責め、裁く思いがあったことに気がついた。

自他をゆるし、愛すること。

今までとはまた違った次元で無頓着になった。

そして、仕事上「マインドフルネス」がライフワークになりつつある。

「瞬間、瞬間の体験に対して、一切の価値判断をしないで、意図的に注意を払うことによって実現される気づき」

図らずも導かれたのは、やはりこの道だった。

「今・ここ」

知りたかった答えが、あった。