コンピュータ科目を担当している関係で、コンピュータの位置付けや教育について雑感を述べてみます。
今日ではコンピュータは珍しくなくなりました。
ゲーム・コンピュータやパソコン、また携帯電話などの普及のせいでしょうか、すっかり生活の中にとけ込んでいます。ファミコンももちろんコンピュータの仲間で、もっと探せば炊飯器などの家電製品などにも形を変えて使われています。
コンピュータというのはCやBASICのような言語を扱うもので、携帯電話はコンピュータではない、と見る人もいますが、そんなことはありません。その古風なコンピュータ構成が、ちょっと進化して、携帯電話になっていると考えて下さい。ひょっとしたら今日なら、コンピュータとはゲーム・マシンのことだ、と認識している子ども達も多いかもしれませんね。そのとらえ方も、書籍とはマンガのことだというのに似て、あながちウソではありません。
コンピュータは以上のように、ゲームを行わせるモノ、ご飯をおいしく炊き上げるモノ、かな漢字変換してくれるモノ、計算してくれるモノというように目的に合わせていろいろ姿を変えることができます。使う人の意志や意図しだいということでしょうか。
中身はコンピュータなのに、ワープロとかゲーム機というように具体的な機能が設定され、それに応じた装置名になり扱い方が決まります。
実はこうした関係は、紙とそこに書かれる文章、絵などの関係に似ているのです。
一枚の紙(コンピュータ)に何を書くかはまったく自由です。書かれる内容(ソフト)によっては領収書になり、マンガ、写真にもなり、あるいは小説や公文書になるかもしれません。
使う人の意志を表現するこうした素材を意志表現手段といいます。
こういう理由によりコンピュータは、パピルスや羊皮紙、紙、電波や電話などの次に登場した意志表現手段である、と私は考えています。ただし、この表現手段を扱うには、独特な言葉、コンピュータ言語に慣れなければなりません。たとえばCやJavaなどです。現在はさらに使いやすい表計算のようなエンドユーザー言語が普及しています。
こうした言葉は、コンピュータを動かすもの、操作するものと教えられるわけですが、それは一面的な見方です。
紙に書く文書のように、何をどうしたいか、設計者の意志や意図を表現するための言葉でもあります。実際に何か開発すれば実感できますが、たとえば銀行オンライン・システムとは、銀行業務はこうすればよい、ということを、マニュアルに書く代わりにプログラム言語で表現したものと考えられます。ソフトウエアはどんなものであれ設計者の意図を具体化したものであります。
さてこういうふうにコンピュータをとらえると、なぜコンピュータが難しいか、どこで難しくさせているか教育上の問題が推測できるのではないでしょうか。
コンピュータは基本的には作文して意志表現するものです。まずは作文に慣れる必要があります。
しかしこれは単にコンピュータを理解したからできるものではありません。
たとえ話をすれば、古池や蛙や水の音などの単語は誰でも読めるし理解できます。しかし誰が、「古池やかわず飛び込む水の音」と作れるのだろうか、という話に似ています。
プログラム命令やコンピュータの構造、OSの操作も、あいうえおや単語の勉強に似て、ちょっと時間をかければその意味や働きを覚えることができるでしょう。しかし売物になるほどの作文はどう書くのか、今日ではこの問題が深刻なのです。それは表現する人の姿勢とか世界観の問題になり、もはや理工学知識体系の枠を超えてしまうのです。
ではどうするのか。
私は情報技術の基礎は、科目で言えば国語、分野で言えば哲学分野であると考えています。
理工学的な、技術的な知識もたまに必要ですが、世の中に受け入れられるシステムは、そんなレベルをはるかに超え、行間に込められた世界観とでもいうような価値により、受け入れられているからです。
これを育成するのはどうするか。その話はまた書きますが、ひとつの方向として、生活の切実感を見抜くという感性を養う必要があります。