メッセージ 2 : 見えるもの、聞こえるもの | みみのきもち 50才からできること

みみのきもち 50才からできること

耳つぼジュエリーをお仕事として始めたのは50才、Wワークを始めたのは54才、56才から放送大学で学び直しをしています。
まだまだ続く、双子の息子たちのお話、耳つぼのお話、ちょっと不思議のお話。

メッセージは、時として、目に見えるものや聞こえてくるものとして届けられます。

スピリチュアル的なもの・・・そういうものの存在は信じていますが・・・、そういうものではなくて、日常生活の中の、あらゆるものです。

たまたま観たテレビ、たまたま流れてきた音楽、たまたま見上げた空・・・

それをメッセージとして受け取るかどうかは、その時の、その人の、心の状態で違いますけれど。。。

 

とても辛くて、悲しいことがあって、涙が、あとからあとからあふれて夜も眠れない・・・どんなにどんなに考えても、自分で答えが出せない・・・そんな時、私は、自分の周りのものを、注意深く見て、普段は気にしないようなものにも耳を傾けます。答えを探して・・・

 

苦しくて苦しくて、どうしようもない時、

たまたま流れてきた 中島みゆきの『時代』・・・

 

今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて

もう二度と笑顔には なれそうもないけど・・・

 

そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ

あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ

だから 今日はくよくよしないで

今日の風に吹かれましょう

 

私は、一体どうすればいいんだろう、そう悩んでいた時、たまたま広げた新聞に書いてあった

『あとで 笑い話になる』

のフレーズ・・・

 

思わず、涙が出ました。

このままがんばっていけば、どうにかなるんだ、そう思えたから。

 

『人は、幸せな時、「見直し」をしないものだ』

と、誰かが言っていました。

辛い時は、全てのことの「見直し」をする時だよ、ってことなんだろうね。

 

私は、青森の出身で、私の両親は、私が小学校5年生の時に離婚しました。

私は父親と祖母に、妹は母親に引き取られました。

祖母は、私をとてもかわいがってくれて、祖母に怒られた記憶は一度もありません。

私の記憶の中の祖母は、いつもいつも笑顔です。

それなのに、母と妹と暮らしたいと、大暴れの末に、父と祖母の家を出ました。

中1の時です。

今は、わがままだったな・・・と、思いますが、中1女子にとっては、母と妹の存在は大きかったのでしょう。

その後、祖母に会いにも行かず(行けず)、10年後、一度だけ訪ねた時にも、用事だけ済ませてさっさと帰りました。ずっと不義理を続けていました。

祖母のことは、大好きで、ずっとずっと頭の中にいたのに・・・

それからまた10年後、結婚して千葉に住んでいた私は、母方の祖父のお葬式で帰省したのですが、その時、思い切って、祖母に逢いに行きました。

当時、祖母は94歳。今、逢わなかったら、一生後悔する、と思ったから。

その日は、朝から涙が止まらず、祖母が入居していた老人ホームに着いた時には、もう、号泣でした。

祖母に逢える嬉しさと、それまでの自分の愚かさを思い、悔いても悔い切れなかったのです。

前もって知らせずに行ったにもかかわらず、祖母は、すぐに私だと分かってくれて、「死ぬ前に逢えた!」と、本当に喜んでくれました。

その時、祖母と一緒に撮った写真は、私の宝物です。

「今度は、夫を連れてくるからね」と、言い残し、千葉へ帰りましたが、結局、訪ねて行けないまま、2年後、96歳で祖母は亡くなりました。

お通夜に駆けつけましたが、冷たくなった祖母に、「もっと早く逢いに来れなくて、ごめんね。夫に逢わせてあげられなくて、ごめんね。」と、謝るしかできず、後悔ばかり・・・

 

私は、結婚してから、ずっと、自分の持ち物に名前を書く時、「Nobuko」ではなく、「Sato」と表記しています。「佐藤」だから、「Sato」です。

 

祖母のお通夜、その時まで忘れていましたが、祖母の名前はカタカナで「サト」

命日は、10月16日・・・私の主人の誕生日です。

「怒ってないよ。大丈夫だよ。幸せになりなさい。」って、「おばあちゃんのこと、忘れないで。」って、祖母からのメッセージが私の心に届きました。。。

 

毎年、主人の誕生日、主人には、「おめでとう」、同時に、祖母には、「おばあちゃん・・・」と、手を合わせます。

偶然、たまたまの出来事ですが、私は、本当に心が救われました。

 

私のブログが、誰かにとっての「たまたま」になれたら幸いです。