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やっと帰って来たよ~。
長かったよ~。
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「誰かのために」では、サビのリフレイン後にわざわざの風情でコーダがつけられている。
いわく、
前段は、争いが消えて世界がひとつになる日まで歌い続けるという決意。世界からすべての/争いが消えて
ひとつになる日まで/私は歌おう
愚かな戦争を/ニュースで観るより
声が届くように/私は歌おう
後段は、ちょっとわかりにくいが、要は「戦争を観ているだけの傍観者に留まることなく、(平和のために)歌い続けようという決意。
どちらも生半(なまなか)な覚悟で言えることではない。
秋元先生、本気なの?
大方の識者は否定的なことを言うのだろう。でも僕は、本気なのだと思う。
この歌が書かれたのは2006年。この頃、湾岸戦争のような日本国民が忘れられなくなる戦争は世界にはなかった(もちろん世界のどこかで、日常のように戦争は起こっていた。日本人の興味を引くような戦争がなかっただけだ)。だからその時にこの言葉に切実な需要があったわけではない。
「ファンが聞きたい言葉」?
当時シアターに連日通い詰めるヲタどもが「秋元今時代は反戦歌でショ」って言ってた?
「歌手が歌いたい言葉」?
当時AKBのリーダー格だったあゆねえが頼んだ? 「センセイ私たち反戦歌歌いたいです」って?
どっちもないよね。
だからこの言葉は間違いなく秋元康の言葉だ。
秋元は、これまで「自分の言葉」ではなく、ファンや歌手のニーズに応えた詞を書いてきてた。その手法で成功を納めてきた。でもAKBをゼロから作り上げ、育て、はじめて「自我を投影」する対象が出来たんじゃないだろうか、と僕は思う。そういう対象って「自分のこども」みたいでしょ。然り。AKBは秋元が手塩をかけて育ててきたこども。
大事なこどもに、嘘の決意を歌わせるわけにはいかないでしょ、パパとしては。
それに、昨今の秋元くらいになると、自分の欲するところの言葉を書いても、それが大きく人々のニーズから外れないようになっているんじゃないかな。まだ七十には遠いけど「從心所欲不踰矩」 の境地。
そして何よりも思うのだが、彼は昔から本当にこういうことを思っていたんじゃないのかな。
「戦争よなくなれ、世界よひとつになれ」って。
かつてはそれをストレートに言うことが出来なかった。
やっと今、素直に言葉にする用意ができた、ということなのでは。
さて、これは「成熟」と呼ぶべきものか?
つらつら思うに、先生、成熟と言うよりむしろこども返りしてるようでもある。
なにしろ放っておいたらそのうちに
なんてファンタスティックなことを言い出しちゃうんだぜ。戦争のない国に生まれ育って/平和とは何か考えもせずに
地球上のすべての人たちを/しあわせにするその理想には
あまりに僕は無力と知って/誰かヒーローになる日を待った
高校生だって「地球上のすべての人たちをしあわせにする」なんてなかなか言わないでしょ。
やっぱ若い子たちのエキスが効くのかねえ、ベンジャミン・バトンしちゃったみたい。「永遠の高校生」とか言われちゃってたけど、今やそれを飛び越えてまるで中学二年生。
中二に戻った秋元少年。
揶揄している訳じゃない。
僕はそれをむしろ好もしく思っている。たっくさんの女の子たち(うーん、麻里子様も含めると微妙な表現だが)の、ある意味子どもっぽい夢を一手に引き受けているおっさんなのだから、中二病くらい再発するだろう。
それにしてもたくさんの夢だ。
「戦争のないひとつの世界」ほどファンタスティックではないが。
それらを叶えるのに必要なのは、Faith Trust and Pixie Dust(信じる心と妖精の粉)。ただし必要なPixie Dustは相当量にのぼるな、こりゃ。
シビアな話をするなら、10年後、彼女たちの9割以上の名前は忘れ去られているだろう。
秋元康は斯界に生き残っているだろう。
彼の中の「大人」は、そのことを誰よりも熟知している。彼女たちがどんなに頑張っても生き残れるのはごくごくわずかだ。
それでも「夢は、かなう」という秋元少年のその言葉に、たかみなはついて行く。そしてその後ろに続くのは2種類のメンバー。
彼女たちのどんな夢でも、真摯に引き受けている限り、そのファンタスティックな夢ごと僕は秋元少年を支持する。たとえそのために、到底ここで言葉にすることが出来ないほど過酷な運命が彼女たちを翻弄し、深い傷を刻みつけることになったとしても。
誰かのために。