いささか旧聞に属することながら。
パーソナリティ:大島優子、北原里英、田名部生来
1月20日からの渋谷AX &映画館上映について大島いわく。
うちのお父さん
驚いた。そしてちょっと感動した。うちのお父さんは映画館4日間ともチケットもう取りました(さーすがー すごーい)。
見に来れないからさ、身内もう来れないじゃない(うーん。来れなーい)
人数多くなっちゃってさあ席も用意できませんから
映画館で、チケット抽選もしたんですけどはずれちゃったと、
「だからあチケットお父さん今日4日間取ったよ」と連絡が来ました。
よかったー。どっか栃木県のどこかでお父さん現れるかもしれない・・よろしくみなさん
つまり、あの大島優子であっても、自分の実父のための席を用意することができないということだ。
たとえ大島の父であっても、チケットの抽選で優先的に扱われることはないということだ。
そういうことを、彼女はさらっと語った。
ファンは大島が父親に席を用意しても許してくれるだろう。
しかし、AKBというシステムはそれは許さない。
そして大島も(北原、田名部も)それが全く自明のことと受け入れている。
どんなにビッグになっても、AKBは「会いに行けるアイドル」。それがAKB存在の原理だ。
AKBはファンと直接繋がっている。間に代理店とかギョーカイ人とかは介在しない。
そして全てのファンは平等。
この原理の前では、大島の父親も一人のファンでしかない。
たとえ実の娘であっても、アイドルに会いに行くためには、同じ試練をくぐらなければならない。
AKBのシステムという観点からは、この態度は圧倒的に正しい。
アイドルはファンにとって擬似的な恋人である。彼女一人対彼氏数万であっても、それは恋人関係に他ならない。
恋に嫉妬はつきものであるが、なぜ数万人の「彼氏」達は「彼女」を愛し続けることができるのか?
それは、そこに「彼氏としての機会(チャンス)は平等」という幻想があるからだ。
外の世界はアンフェアネスでいっぱいだ。出自、コネクション、外見。さまざまなセレクションが努力をあざ笑う。
だがAKBの世界は違う。努力は必ず報われる。CDを100枚買って握手を100回すればきっと名前を覚えて貰える。
特別扱いされているファンはどこにもいない。トップオタないしはネ申と呼ばれる人々は存在するが、彼らの地位は彼らの努力(と献身と何かを放棄したこと)の報償だ。誰でも同じように努力すれば「チャンスの順番」はきっとくる。
それがAKBの世界を貫く共同幻想だ。
だからメンバーの恋愛はご禁制だし、特定のファンとの非公式な接触はご法度である。
たとえ大島の親であっても特別扱いはできない。
実に正しい。
正しいが、それがどれほど困難で非情なことであるか。それを当然のように語るのが、あの大島優子。
それを貫くAKBと(おそらく)秋元康。
彼もおニャンコの時はここまで徹底できなかったろう。あの時は天才奇才風雲児と呼ばれても、メディアという巨大な混沌の前ではただの若輩者でしかなかった(そして何よりも公私混同してメンバーを嫁さんにしちゃったのは当の秋元だったし)。
しかし今や違う。全ては彼のコントロール下にある。パーティーのルールは全て彼が決めているのだ。
恐るべしAKB。
恐るべし秋元康。
後日談1 AXが終わった後、こんなニュースが。
AKBの偉い人が女ヲタを楽屋に入れチケを上げた件
図体が大きくなると、こういうことが起き始める。もしこれが「たいしたことない、よくある出来事」で済まされるようならば、AKBの「終わりの始まり」を示しているのかもしれない。
と思ったら後日談2
「AKB48」メンバーと支配人が謝罪 さすがに素早い対応だった。
え? なんでこんなことで大騒ぎになるの? 業界ではよくあることでしょ? と感じる人は、AKBのシステム、ルールが理解できていない。さすがに戸賀崎氏はことの重大さ、「共同幻想」が崩壊することの危険性をよくわかっていたようである。
正しい、まことに正しい処置ではあるが、AKBが大きくなりすぎた故の綻びであることは拭えない事実として残った。
余談
上述の「トップオタないしはネ申」の「推し」が板野、齣谷、篠田、浦野、峯岸であるというのは、とても示唆に富んでいる。公演のライブDVDをずっと見続けている今、僕が誰を見たいかというと、増山だもんなあ(あと、りなてぃん。んんん、まあ彼女の最近の様子を見ていないか、というと、よーく見ているんですけどね)。