時にはしおらしい娘のように | 市ノ蔵慎一郎の『人生は変化する剛速球』

市ノ蔵慎一郎の『人生は変化する剛速球』

世相ひねくれ、ななめ斬り。

というわけで、何とか生きているてえことだ。しかし、寒いなあ。この与太話も最近はぱっとしねえ。これはお天気や世相も関係してるんだろうが、今の課題は、消費社会にけがされ、うすっぺらにされちまった言葉に本来的な活を入れることなわけだ。するってえと言葉以外の活動が大事になる。俺が瞑想やってるのも、ま、そういうわけよ。たとえば平和、てことばがどうしようもいなくぺらぺらな、力のない、儀式のおまじないみたいにされちまった。これに、なまなましい肉体感覚を生存本能の危機感とともに回復させなきゃあ、申し訳ねえ。言葉と肉体感覚の分離こそが、人類の救いがたい病で、もはやとめどなく自動運転してるって感じがしねえかい?というわけで、俺にしちゃあ、割としおらしい文章になっちまったな。