スピ系のブログでよく人生は「映画のようなもの」と表現しているのを見かけます。


そして悟りの境地を得るとは、そのスクリーンの中から離れて映写機の位置に来ることのように言う人もいます。


すなわち、スクリーンの中で演技するとは、自分のエゴが産出す思考の中にどっぷり浸かって、エゴに振り回されている状態で、スクリーンから離れるということはそのエゴを離れたところから観る事ができる状態ということです。


少し離れたところから自分自身を観る事ができれば、ずいぶんと客観的になれるんではないでしょうか。




華麗なるギャッツビーの監督、バズ・ラーマン氏は彼の映画の中でそのことを意識しているんじゃないかと思われる手法を使っています。


まず鳥目線で登場人物のところに近づいていったりする手法です。

その鳥目線で観ているのはいったい誰でしょうか?


監督、観客、あるいは神様?




まるで箱庭のような町並みを登場人物たちは狂ったように車を走らせます。


そしてそこには謎めいた眼鏡をかけた二つの目。(眼鏡の広告の古い看板)


映画のナレーションで敢て、まるで「神の眼」と言っています。


やはり監督は、神の視点というものを意識しているんでしょうか?


神の眼の前で繰り広げられる、人間ドラマ。


いかにギャッツビーが理想を追い求めて懸命に生きようが、


いかにブキャナンが欲望の赴くまま、他人を傷つけ、悪辣の限り生きようが、


神の眼は全てを観ている。


神の眼の前では、善も悪もなく、すべてが起きるべくして起きる。