梅雨が明けるらしい、と、一昨日から5人目に囁かれた。

「そうですか」

 僕はもう飽き飽きしたその情報に、適当に相槌を打ち、湿気と垂れ込める雲で灰色にうずもれた四角いはめころしの窓を見た。

「梅雨が明ける明けるって、皆言ってるけどサッパリじゃないですか」

 後ろの席に座る5人目の囁きの主――に僕は言った。

「え、そうなの。私は今朝のニュースで初めて見たけど?」

 まぁ確かに、今年の梅雨は例年以上に長かった。と、言うより、そもそも梅雨という奴はこのくらいの長さのものではなかったか。

 かそけき春は花びらと無駄な宴会と共に姿を消し、五月病でうだりきった脳が何も考えられなくなり、業者コーヒーと、寄る辺のない ものが集まる喫煙室で煙草だけが消費され、集煙機に紫煙などといった高級なものではないが、値上がりばかりを続けるそれでも安物の白っぽい煙が食べられていく。

 そんな日々を繰り返した後――ゲリラ豪雨という随分と派手なオープニングで、今年の梅雨は開幕した。

「長かったわよね、今年の梅雨って。高崎くんはさ、電車が水没したときどうしたの?」

 窓の外はねずみ色。色彩だけでは全く時間も判別できない。ぐるぐると、雲が渦巻いて、またひと雨きそうな予感がする。頭が、痛い。だから多分、また降る。

「頭の痛い話ですよ。思い出すだけで厭になる」

「そんなに厭な話?!」

 彼女――垣内と書いて『かいち』と読む――は、少し乾いた唇をしていた。

 グロスも剥げてしまう、そんな時間帯。絶賛残業組。数字が合わない。独身の気楽さと平社員の立場の弱さと、まだ何とか支給される残業手当をアテに、PCと今月分の伝票との間だけを往復していた視線を、彼女に向けたのだった。

 さして美人ではない、一つ上の先輩。美人のジャンルはさっさと退社していったコンパ組に任せて、自分は仕事とフレンドリー方面に頑張ろうって性分か?

 僕はそう思っていた。

「えぇ、可也思い出したくないんですよ。ホント、洒落んなんない」

「ごめんごめん、まさかそんなにね」

「まさかそんななんですよ」

 僕たちは手を止めて、椅子を半回転させて、コーヒー握って。

 美人ではなくても不美人ではない垣内さんは、少しだけ、目元を抑えた。

「泣いちゃいそうな?」

「うん、泣く、泣く。全米が泣くくらいの話」

 垣内さんがタンブラーに唇をつけると、そこにグロスが溜まっているのが見えた。

「あァ、彼女に振られたんだ」

 飲み口から唇が離れた途端、垣内さんはサラッと告げた。

 僕より小柄な彼女の肩はやたらと細くて、それは細すぎるんじゃないかと思うくらい。残業も何も一番に音を上げるかと思いきや、最後まで頑張っていたりする。

 厚めの前髪から、からかうような、同情するような、笑っているような、悲しんでいるような、……まぁ僕には女性の表情なんて読めないってワケで。

「正解。詳細は省略」

「遠恋だったんでしょ? それであの日に、木村ちゃんの家に泊めてもらったって話でこじれて」

 げーーーーーーーーーー。

 血の気が引いたのがはっきり判った。実にその通りだったからだ。

 同期入社の木村(女)は僕みたいな上京組ではなくて、チャリ通もできる超地元組で、今日もコンパに行ってます。

「なななあああん、なんで」

 コーヒーでむせそうになって、呂律も回らない。

「独身の男の情報は、放っておいても耳にはいるんだわ、これが。聞きたくなくてもね」

「えぇ~。僕、まだ1年目ですよ、売り物にならないですよ」

「高崎くんはさ、残業魔じゃない? その辺がウケてるらしいよ。密かに隠し財産を作ってんじゃないかって」

「えー、そういうのは政木に振っちゃってくださいよ、あいつ、家が金持ちだし」

「政木くんは競争率高いからね。ランク分けされてるの、純粋に」

「ランク分けって、何が?」

「男のランクと自分のランク。ちゃんと棲み分けは守りましょうね、みたいな」

「うへぇ」

 自分のランクを想像して厭になる。

 僕はコーヒーを飲み干して、

「垣内さん、コーヒー淹れなおしてきましょうか?」

 立ち上がった途端、頭痛の始まった頭で、言う。

 何、ランク分けって。何それ何なの。何で俺のプライベートがダダ漏れなの。

 夜間照明がビルに灯りはじめて、ぐるぐる渦巻く雲は、歌舞伎の隈取みたいな顔つきになってきた。

 あぁ、絶対降る。僕の梅雨は終わらない。何か胸糞悪い。夜食に食べたカレーパンは濃過ぎたか?

 垣内さんはタンブラーを飲み干して、飲み口を指でぬぐった。笑いながら僕にそれを差し出して、

「ありがと。私はね、部外者でいるように、これでも注意してるんだ」

 と、僕の手に何かを握らせる。

 白くてでかいラムネ状のものに「B」マーク。

 あ。

「高崎くんはもうコーヒーはやめて、水にしといた方がいいよ」

 バファリン。

「余計に頭、痛くなるよ。最後の一杯飲んだら、雨降る前に帰ろう」

 また地下鉄が水没する前にね。

 その言葉を聞きながら、僕は錠剤のアルミ箔を破った。

 ファンタジーゲームの世界じゃなくても、街は水没する。

 ケータイはもう誰からも鳴らない。

 部外者と言う割には、ずいぶんとやさしいじゃないですか。

「梅雨、明けるんですよね?」

「?、……ま、明けるって」

 でかい錠剤、半分は何?

「僕もカテゴリの外に出たくなったんで、明日よかったらご飯でも食べません?

 バファリンのお礼に。垣内さんの好きなとこでいいから」

「――デート?」

 子供みたいな顔で笑うものだから、

「みたいな真似事です」

「じゃあ、明日本当に梅雨が明けたらメールするわ」

「メール?」

「メール」

「梅雨が明けたら?」

「明けたら」

「明けなかったら??」

 垣内さんは笑って答えない。ケータイの赤外線を僕に向けてきたので、応戦する。

「梅雨が明けなくても」

 垣内さんは言葉をとぎらせた。PCの接続を落としているらしい。

「メールしていい?」

 余所を向いたままで、そう言うから、僕も苦笑して、

「電話でもいいですよ」

 と、答えた。

 梅雨は明けそうである。


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