雨が止まない。窓格子から透けて見える灰色の空は、ずっとずっと同じ模様で、私はほとほと飽きていた。
 もうどのくらい雨が降りつづけているのだろう、考えてみるのも莫迦らしいほど。
 カレンダはとうに意味もなくして、ありとあらゆる媒体も消えてなくなって、ここには君と私の二人だけ。
 誰もいない。
 私たち、どうするのだろうね。
 君は眠っている。
 誰もそれをとがめる人はいない。
 君のぬくもりを左の肩に感じながら、私は体温と人のにおいを吸い込んだシーツの片端を噛んだ。

 この高い建物からじゃ、空しか見えない。
 人が住んでいるはずの箱の塊の中で、私たち二人きり、降り注ぐ雨をかいくぐるように、ときおり、つややかに羽根を濡らした黒い鳥が横切る。
 ああ、私たちはあの鳥ほども自由じゃない。
 眠りこける君は、ささやかな吐息を漏らして。
 かすかに蠢く胸の隆起が、君の生きていることを証明する。
 無理やり目覚めさせても、もう、話なんてしなくても十分なくらい、私たちは話したよね。声が嗄れるほど、心が枯れるほど。
 すべてのメディアが失われてから、ずっと、時間の陥穽を埋めるのはお互いのことしかなくて、たたひたすらに喋っていたよね。
 
 雨は降り続く。もう地面だったところは湖になってしまって。魚ほども泳げない私たちは、魚ほどにも自由じゃない。
 壊れた階段の手すり。伝ってそっと階下に向かう。誰もいないフロアから、生きるために食べ物を調達する。
 メディアは失われたのに、供給され続ける不思議なライフライン。
 私たちはお湯を沸かすことも出来たし、明かりをつけることも出来たし、お水を飲むことも出来た。
 でも、もう私たちは十分に会話したよね。
 言葉も忘れてしまいそうなくらいに。
 知っていることをすべて吐き出してしまった今日はいつなのか。
 印を付け忘れていたカレンダ、いつしかペンのインクが出なくなっていた。
 日は昇り、月は満ち欠けを繰り返し、君の呼吸は聞こえて、鳥が鳴く。


 雨が、降ってる。


 灰色の空、今日も、昨日も。
 ビニールの傘は乾くことがなくて、嫌なにおいをさせている。
 厚く垂れ込めた雲の向こうに、空はあるんだろうか。
 部屋の外に出ることさえ無意味になるくらい。内も外もなく。
 この世界には私たちしかいないのかな。
 誰も聞くものとて泣くそう呟いた。多分昨日のこと。そうかもしれない。
 私も眠ろう、邪魔で、陰気くさい世界はシャットダウンして。
月曜の朝
 君とおそろいの琥珀の指輪。この閉じ込められた命に私たちは意味を感じて、そして二人で分け合った。
 誰が今の私たちに意味を見出してくれるだろう。
 この虫と私たちの何が変わらないのだろう。
 うつろいゆく日々も感じ取れないまま、いつ目覚めるか解らない相手を待って、乾くことを知らないドブ川のような空と、水かさを増す「元」アスファルトだった湖。
 以前TVで見かけたマングローブのように水面に林立する建物は、徐々に溺れつつある。

 眠る私、目覚める君。

 もう交わす言葉も無い。朝も昼も夜も無い。私と君は、次、いつ出会うのだろう。
 夢の中呟いてみる。鳥になりたい、煉瓦になりたい、虫になりたい。
 何処に行っても君とは触れ合えない。
 琥珀の指輪がうらやましくて、悲しくて、涙が落ちた。
「あ…」
 私のものじゃない声がした。
 君?
 薄目を開けると君が左手を窓の外に掲げているのが見えた。指先には今にも溶け出しそうな蜂蜜色の光がまぶしかった。

 …光?

 君は私が閉めたカーテンを解き放った。

 「あぁ…」
 私は左足を床に下ろした。
 窓から射す日差しは。
 ざわめくマンション、どこからか朝ごはんのあたたかいにおい。
 窓から射す日差しは。
 君の左手からこぼれるそれは。
 君が振り向いて笑う


 雨は止んでいた。
***
 現実味のない意識のまま、私は目覚めた。体の節々が痛みを訴え、でもそれだけが私の中でリアルだった。
 倒れ付したそこはまるで廃墟の有様。私が昨夜まで眠ってたベッド、かたわらの携帯は、どこへいってしまったのだろうか。
 そうして不思議がりながらも、手のひらに広がるザリとした砂の感触、周囲の崩れかかったレンガの壁、恐ろしいまでに透き通る晴れ上がった空に、私の目は焼かれた。
 わずかにのどが渇いて、のどもとに手をやる。のどに触れた硬い感触。ああ、とそれを見つめる。
 たしかなものは、この琥珀の指輪だけ。
 君がくれた。
 蜂蜜を固めたような甘い色の中に、一匹の虫が封じ込められている。命ごと、固化しか樹液なのだと君は言った。珍しいものなんだ、とも。
 唇で触れても甘いわけでなく、のどの渇きを潤すわけでもなく、琥珀は私の指にある。君はどこに?
 ここは?
 たずねてみたところで答える存在はない。
 なぜか地平線まで見通せる廃墟の果てには、群れ続く壁壁壁。
 仕方なく立ち上がる。ひざに痛みが走る。自分の両足のようでいてわからない。
 指を這わせた外壁には、よくわからない模様が彫られている。たとえて言えばヒエログリフのような。
 かろうじて「模様」だとわかるほどのくぼみ。
 ずっとずっとここにあって、風化し続けていたのだろう。
 昔ここにあった人々が刻んだ命の残り香のようなもの。
 そのころには、ここはただの夢の世界なのだと簡単に納得している私。
 だって君がいないこんな世界が、ほんもののはずがない。君に話したらきっと哂う。
 でものどが渇く。偽者の感覚が私をさいなむ。ただの夢のくせに、私ののどを痛めるこの乾いた空気。
 遠くから音が響いてきた。からからと。
 からからと、笑う声は、ガラガラと、いななくケモノのうなり声にも似て。
 干からびた壁が崩れて私も指輪ごとそのなかにのみこまれてゆく。


***
 現実味のない意識のまま、私は目覚めた。体の節々が痛みを訴え、でもそれだけがわたしの中でリアルだった。
 倒れ付したそこはまるで昔、きみと見た映画のようなジャングルだった。すごい月明かりで、目が焼ける。うっそうと青い匂いがたちこめ、じとじとと湿気が気持ち悪い。
 夢だ夢。
 夢の中で人間は意識を失い、取り戻し、乾いた昼を過ごして湿った夜を迎えるんだ。
 きみがいないから、これは夢。ひとりだから、夢。
 ひざを濡らす地面の感触、草いきれ、そこここに青い気配。
 でもただ静寂、たとえ呼んでも、声のすべて吸い込まれそうな静けさ。
 生き物がまったくいないのは、わたしの想像力が足りないからかな。
 踏みしめた地面はスポンジのようで、一歩一歩に足を取られる。どうせ夢なのだから、迷う心配なんてしなくてもいいのに。
 わたしは誰に対するでもなくうそぶいていた。
 心の奥底に芽生える不安。
 きみがいないから。きみが起こしてくれたら、このひとりぼっちの夢ともさよならできるのに、
 ただ綺麗なだけの、さみしい夢。
 命のないこの世界。
 ひときわ月の明るく輝く場所に出た。茂る草や木々が途切れ、奇跡のようにひろがる湖。
 命のない湖は、丸い湖面に円い月を映して、そこにあった。
 水中に手をつける。のどの渇きを思い出したから。
  ひんやりと、しかし、ねっとりと、水が指先に絡み付いてすくいあげようとした、そのとき。
 わたしは、指先の琥珀が解けて、閉じ込められていた虫が、いままさに水中に泳ぎさっていくのを見た。