神・人間・そして・・・
前回、HPを更新したのは昨年の暮れ。その際、「時間というのは自分でつくりだすもの」と書きましたが、何もできずに5か月が過ぎてしまいました。パソコンのOFFICEが全く使えなくなってしまいました。新型コロナヴィルスの感染が急速に拡大していく状況でした。リモートコントロールを使って業者に修理をお願いしましたが、オフィスを再インストールしても症状は改善せず、店に持参してもらわなくてはできないといわれました。あまり外出したくなかったので、しばらく放置。ホームページに載せる文章はすべてワードで作っていたので、HPの更新もできずにいました。意を決してパソコン本体を持っていきPCを初期化してもらいました。しかし、今度はホームページビルダーを再インストールして業者のスレージとつなげることができず悪戦苦闘。ようやく数日前にホームページビルダーを使えるようになりました。HP更新がなかなかできなかったのには、ほかにも理由があります。家族の健康問題もありました。しかしやはりコロナウィルスの問題が一番の原因です。同居している二人の暇を持て余している孫と戦う(?)毎日でした。三か月の自粛生活。早く通常の生活にもどりたいと思うこの頃です。6月に入って、二人の孫の学校も、少しずつ動き始めました。「学校を知らない一年生」だった下の男の子は、6月1日にようやく入学式を迎え、そろそろ間引き運転的に学校が始まりそうです。4年生になった上の子もぼちぼち学校がはじまります。このまま順調に通常生活が始まってくれればと思いつつも、不安な毎日です。久しぶりに、新しい文をアップしました。昨年の9月から神奈川県のある高校で勤講師として高3の倫理を3か月担当しました。久しぶりに教壇にたち、懐かしい感触を思い出しました。内容が近世以降の西洋思想だったので、昔のことを思い出しました。そんなわけで、今一度自分の授業を反省してみたくなり、始めてみました。全体で20回くらいにまとめたいと思っています。「神・人間・そして・・」と「第1回 神・人間・そして・・」の2編です。よろしかったらご覧ください。相変わらず落ち着いた時間がもてず、ホームページの更新もままならないかもしれませんが、とにかく、始めたものは続けてみようと思っています。最後に、最近少し気になっていることを書きます。自粛生活の中でSocial Distanceという言葉が頻繁に聞かれます。しかし、家庭ではこれは不可能です。孫たちが不機嫌になり、あるいは不安になったとき、ギュッと抱きしめると少し落ち着くようです。子どもに限らず、距離の近さは人間にとって大切なものではないでしょうか。僕の自己流エチモロジー(語源解釈)では、「心」というのは「ここのところ」という意味です。「そこ」は胸の内であり、喜び悲しみが「そこのところ」に坐す場だと思います。心は目に見ることはできないけど、その人がそこにいれば、その表情から心が感じられます。また信頼しあった人間のあいだのハグは、体の触れ合いという以上に、魂(心)の触れ合いではないでしょうか。その人がそこにいるということは、体がそこにあるというのではありません。心がそこにあるということで、それだけで十分なのだと思います。現状では、Social Distanceを強調することは仕方がないことだと思います。しかし、それを「新しい生き方」と言い、新しい社会の模範とすることはどうでしょうか。テレワークが一般化すると、通勤の無駄がなくなり、僕たちは東京でも、北海道でも沖縄でも、どこでも好きなところに住居を選べます。教育界でも、ネットでの授業が一般化するかもしれません。人と人との繋がりはどうなってしまうのでしょうか。すべてがネットを通じて展開していくということは、僕が今言った「その人がそこにいること」がない、つまり「それだけで十分なもの」がそこにない状態だと思います。一番大切なものがない状態ですべてがすすんでいく社会、それは恐ろしい社会ではないでしょうか。目の前の苦しんでいる人に対して僕たちは心を痛め、なんとかしたいと思います。しかし世界には、その人以上に苦しい状況に置かれている人はたくさんいます。その人々に対して、僕たちは心を痛めません。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。人間の絆。もう一度そのことを考えてみなくてはならなくなるでしょう。何となくそんなことを思うこのごろです。木戸