サッカー日本代表に観る戦後日本の悲哀 ~ナショナルなるものの喪失とは何か~ | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

岡崎とか本田だとか長谷部だとか香川だとか長友だとか、新体制の日本代表の顔ぶれはロートルが占めた。

若手中心では本大会での予選リーグ突破は難しいだろうが、4年後に向けてのいい経験を積ませることができるだろうという長期的展望は等閑にされた。

加齢は確実に運動能力を奪っていく。

人間の能力には生得的なものがあり、このロートルらの能力の限界はすでに4年前に露呈しているじゃないか、4年前(ブラジル大会)が駄目だったら4年後(ロシア大会)もダメに決まってるじゃないか、経験を積めば人間は進歩するなどというのはヒューマニズムの悪しき言説であり、若手で行くもダメ、ロートルで行くもダメというなら、若手で行ってダメな方をフツーは採らないかい?

「保守的な生き方といふものはあつても、保守主義などといふものはない」と言った恆存はまったく正しい。

 

私もついうっかり「保守主義である」などと言ってしまうのだが、有り体に言えば、保守主義というのは現状維持のことであり、長きに渡って持続してきたものを、再解釈、再意味づけすることなく、無条件に維持しようとするのが保守主義者である。


どうやら、戦後民主主義を墨守するという保守主義(左翼的にして革新的な戦後体制を保守するという意味で実は左翼である)は、サッカー界にも形を変えて定着してしまったようだ。

それを踏まえれば、自民党を含む親米の保守主義者なんぞは、左翼国家アメリカが植え付け、日本人自身が育ててしまった、左翼的にして革新的な戦後体制を維持しようと努めるという意味で左翼なのだ。
 
ナショナルなるものを喪失もしくは放擲した国家の悲哀と観ておくほかあるまい。