安物の時代と良書の値打ちに観る戦後日本の価値観的変貌 | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

畢竟するに、自由貿易か保護貿易かのどっちを採用するかという議論は、自由貿易による輸入品の低価格化の消費者メリットと、それへの対抗策として取らざるを得ない国内品の低価格化、及び、それがもたらす企業の利益率低下に伴う雇用と賃金のカットという、労働者のデメリットとの折衝をどうつけるのか、というところに帰着していく他ない。

 

ところが、世論に耳を傾けてみると、「大衆」の要求するのは「外国産も、国内産も安く買いたい」「雇用率も賃金も上げて欲しい」と言ってるように聞こえてならないのはどういうことだろうか。

 

おそらく、戦後という第二の近代に入って立ち現れた「大衆という生き物」は、これらのメカニズムを良く理解せず、単なるポピュラーセンチメントだけで自由だのTPPだのグローバリズムだのと言ってきたのではないだろうか。

 

「輸入品も国産品も安く買いたいが、雇用も賃金も充実して欲しい」などと、そんな二律背反するほかない権利を「両方寄こせ」などといった虫のいい話が通用するはずもない。

 

今日になって、漸く自由貿易や市場経済の弊害が取り糺されてはいるが、今からおよそ20年前に書かれたシュムークラーの「選択という幻想 ~市場経済の呪縛~」は、ミルトン・フリードマンの「選択の自由」を様々な射角から批判した名著だったが、新自由主義の呪縛に自らのめり込んでいた当時のわが国にあっては、シュムークラ―は一顧だにされることなく経済学から葬り去られた。

 

私が丸善で3400円出して買った本が今じゃbook何某で100円で売られている。

 

どうやらこの国では、良書の値段というものは国家の値打ちと正比例するようである。